軍刀を持ち上げると、ずしりと重い。刃先は欠けているが、なお鋭い。鉄帽は錆び、当時の銃弾を受ければ容易に貫通しただろうと思わせる薄さだった。
日本兵のものと説明された大判の布には染みや破れが残る。汁物や焚き火の焦げ跡と思われる穴など妙に生々しいその汚れが、そこに確かに日本人が生活していた痕跡を感じさせた。
水筒には「髙山十班」と読める文字が刻まれていた。「班」の文字の「リ」部分がないため、そう読むのかどうかは定かではない。だが、日本語表記から旧日本軍側の所有物であることは明らかだ。これまで英印軍のものか判断できなかったという展示品は、その場で日本兵の遺品へと書き直された。
第31師団、国境を越える
1944年3月15日、旧日本軍第15軍隷下の第31師団はビルマ領からチンドウィン川を渡河し、英領インド側に渡った。師団長は佐藤幸徳中将。兵力は約1万5000人。
作戦構想は大胆だった。第15師団が正面から、第33師団が南方からインパールを攻撃し、第31師団がインパール北方のコヒマを占領し、英印軍を包囲殲滅するという3方向同時攻勢である。
一番の問題は補給だった。日本軍はわずか3週間分の食糧しか携行せず、「現地調達」を前提としていた。一方の英印軍は空輸による補給体制を確立していた。
ビルマとインド国境のチンドウィン川から3方面に分かれて移動していた第31師団の一部の部隊は3月28日、ジェサミに到達。当時この地を守っていたのは英印軍アッサム連隊約800名(戦史叢書『インパール作戦』より)。

ジェサミはインパール作戦北部戦線の最初の本格的戦闘地となった。旧日本軍に従軍した兵士の手記には次のようにある。
「ゼサミ(ママ)の陣地は、いわゆる蜂の巣陣地を構成し、ジャングル内を巧みに利用して、相互陣地間の掩護(えんご)射撃を行い、思わぬ方向から狙撃を受ける事しばしば、その為、攻撃は頓挫する。敵は頑強なり」(『インパール作戦─烈兵団コヒマの死闘』村田平次著より)
3日間の激戦の末、旧日本軍は村を占領した。戦闘の間、ジャングルに身を潜めていた村人たちも村に戻り、英印軍を後退させた旧日本軍とつかの間の共同生活をすることになった。

