竹山団地の開発が進められた1960年代、公社では、汐見台団地(横浜市磯子区)や相武台団地(相模原市)の大型団地の開発が進められていた。竹山団地はそれらに続いて計画された。
「それまではとにかく住宅を建てることが中心でしたが、住宅だけではなく、1つのまちを作らなければいけない、という意識を会社として持ち始めたのだと思います。大きな土地があれば、団地をつくることができる。そんな背景のもとで、用地を仕入れていたようです」
1960年代は、高度経済成長に伴って都市への人口集中が進んだ時代でもある。郊外では市街地が無秩序に広がり、道路や下水道などのインフラ整備が宅地化に追いつかない状態が問題になっていた。緑地や農地が減少し、大気汚染や水質汚濁などの公害も深刻化していく。
こうした時代を背景に、住宅を供給するだけでなく、商店や道路、学校、緑地などを含め、生活環境全体を計画する考え方が重視されるようになっていった。
「世の中では『自然は意識しないと守れない』と、環境について語られるようになりました。公社でも、建物という人工物をつくるだけではなく、自然と共生しなければいけない、という考えが生まれたのです。団地の発展にも、エッセンスとして自然や環境という視点が加えられた時期だったと思います」
谷の地形を生かした「センター地区」
竹山団地の用地取得が始まったのは1963年で、当初は現在の約半分の区域で計画されていた。その後、隣接地を追加取得できることになり、団地の計画区域は大きく拡大する。
「広い敷地を取得できたため、団地の中心となる場所にセンター地区を作らなければならないね、と計画をし直したということです。魅力的な場所にするためにどうしたらいいか、関係のある設計者など、いろいろな人に話を聞きに行ったそうです」
相談先の1人が、のちにセンター地区の設計を担う緒形昭義さん(1927-2006)だった。緒形さんは横浜国立大学で教鞭を執り、群建築研究所を率いていた。神奈川県内の公共建築やまちづくりにも携わっていた建築家だ。


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