呉正男さんは戦後、シベリア(ソ連)抑留を現在のカザフスタンで経験した。そんな呉正男さんは25年7月、自宅近くの横浜・真照寺に台湾出身戦没者慰霊碑を建立した。
呉さんの人生を語るうえで、シベリア抑留だけを切り取ることは、実はできない。慰霊碑建立に伴う記者会見で「シベリア抑留について日本政府へ伝えたいことはあるか」と問われた呉さんはこう語った。
「ソ連抑留が人生最大の幸運という手前、ありません」
記者会見の場にいたほとんどの人は、極寒の地での苦難や戦後補償への思いを呉さんが語ることを想像したかもしれない。しかし、呉さんにとって重要だったのは、その後の人生の分岐点となったことだった。
「シベリア抑留が人生最大の幸運」だった理由
シベリア抑留により台湾へ戻る時期が遅れたことで、47年の中国国民党政府による民衆弾圧事件である「228事件」、そしてその後の戒厳令下で続いた白色恐怖(テロ)と呼ばれる政治的弾圧の時代を、結果的に避けることができたのだと、呉さんはいつも笑いながら語るのだ。
また、呉さんは高校卒業が遅れ、法政大学へ進学する時期が遅くなったことも「幸運だった」と話す。当時は中華人民共和国が成立したばかりで、日本国内でも新しい中国への期待が語られ、228事件や白色恐怖を経験した台湾ではなく、中国大陸へ渡ることを勧める声もあったという。
しかし、先に卒業して大陸へ渡った台湾出身者たちの連絡が途絶えたことから、呉さんは渡航を思いとどまり、日本に残ることを選んだ。
その後、大学を苦学の末に卒業し、銀行員として働いた。退職後は許昭栄さんらと台湾老兵の顕彰活動に参加し、さらに11年には長年の念願だった「NHKのど自慢」の台湾開催にも尽力するなど精力的に活動した。
だからこそ、呉さんにとって戦後の人生は歴史に翻弄されながらも「自ら努力して人生を切り開いてきた」という誇りがあったのだ。
慰霊碑を建立した理由を呉さんは「台湾には元日本兵をまつる場所が数多くある一方、日本で台湾出身元日本兵を伝える場所は少ないから」と語っていた。
慰霊碑の完成後、「その後の活動は何か考えていますか」と尋ねると、呉さんはこう答えた。
「石碑が出来て、もう思い残すことはありません」
その言葉は、自分たちが確かに存在したという記憶を、次の世代へ残すことができたという安堵のようにも聞こえた。

