退屈してもよい、ぼんやりしてもよい、遊びを思いついてもよい、好きなことに没頭してもよい、何も成果物を残さなくてもよい……「何をしようか」と自分で考え、自分の時間の使い方を決めること自体が、主体性を育てる経験になる。
自由とは、常に好きなことをして楽しく過ごすことではない。することが決められていない時間を前にして、自分で考え、選択し、その結果を引き受けることである。
子どもに余白を渡すことは、教育を放棄することではない。自分に与えられた時間を、自分なりに活用する練習の機会を渡すことである。大人が退屈を先回りして課題で埋めれば、子どもは自分でやることを見つける機会を失う。
ただし、何も示さずに放置すればよいという話でもない。学校や大人は、博物館、科学館、図書館、自然観察会、工作、料理、地域の行事など、さまざまな選択肢や出会いを示せばよい。子どもが相談してきたら、一緒に考えればよい。
余白を奪う「地獄的発想」
子どもの余白を認めない発想は、子どもの問題だけでは終わらない。先日、私が出演した討論番組で、教員の夏休みをめぐり、「保育園は夏休みも働いている」「一般企業には、海外旅行に行けるほどの長い夏休みはない」といった趣旨の意見が出た。
しかし、他の職業に十分な休みがないことは、教師の余白を奪う理由にはならない。自分たちが休めないのだから、教師も同じように働くべきだ。これは、苦しさを公平に分配しようとする発想である。私は、これを「地獄的発想」だと考えている。
そもそも授業のない学校の夏休み期間も、教員に勤務時間は割り振られている。そのうえで、年次有給休暇などを活用してまとまった休みを取ることまで否定する理由にはならない。
誰かが恵まれているように見えたとき、その条件を引き下げ、自分と同じ苦しさまで落とそうとする。全員が等しく苦しめば公平だという、下向きの平等である。必要なのは、その逆ではないか。
教師にまとまった余白があるなら、他の職業でも、心身を回復させたり、家族と過ごしたり、長期の旅行をしたりできる働き方を実現していく。誰かの良い条件を奪うのではなく、自分たちの条件も良い方へ変えていく。これを私は「天国的発想」と呼びたい。子どもの夏休みも同じである。
大人が忙しく働いているから、子どもにも課題を与え続けるべきだ、とはならない。大人も子どもも余白を持てる社会を目指すべきである。子どもの夏休みを宿題で埋める発想と、教師の夏休みを別の仕事で埋める発想は、根の部分でつながっている。
どちらにも、「予定のない時間は無駄である」「目に見える成果がなければ、何もしていない」「空いている時間には、外から仕事を入れてよい」という価値観がある。しかし、余白は、まだ使われていない資源ではない。子どもにとっては、遊び、退屈し、夢中になるものを自分で見つけるための時間である。
学校で子どもの余白を認めなければ、子どもは「空いている時間は、誰かに埋められて当然だ」と学ぶ。そして、その子どもが大人になり、今度は他人の余白を「ずるい」「暇だ」「もっと働け」と責める側になるかもしれない。
大人社会の余白を認めない価値観が学校へ持ち込まれ、学校がそれを子どもに教え、その子どもが同じ価値観を次の社会へ持ち帰る。この循環を、どこかで断ち切る必要がある。その出発点の1つが、夏休みの余白を子どもへ返すことではないだろうか。

