では、なぜ学校は、自由研究の義務提出をやめないのか。私が考える最大の理由は、やめるときは説明を求められやすいからである。
前年と同じように自由研究を出し、保護者が苦労しても、親が相当部分を作っても、子どもが提出直前に追い詰められても、「昔からそうしている」で済みやすい。
しかし、自由研究をやめた後に、「子どもが何もしなくなった」「探究する機会を奪った」「他校ではやっている」「学力が下がるのではないか」といった声が1つでも出れば、やめると決めた人が説明を求められる。すると、前年踏襲が最も安全な選択になる。
自由研究は、学校にとって「教育をした証拠」にもしやすい。子どもの内側に生まれた興味や発見は、外からは見えない。しかし、模造紙や工作なら廊下に並べられる。保護者にも見せられる。コンクールにも出せる。学びそのものよりも、「学びがあったように見える完成品」が優先されてしまうのである。
自治体や企業、各種団体からコンクールの募集が届き、その代表作品を選ぶために、全員へ課題を出すという逆算も起きる。子どもの興味から研究が始まるのではない。提出先が先にあり、それに合う作品を作らせる。それでは探究とは呼びにくい。
さらに、「子どものため」という言葉が、検証を止める。探究心を育てるため、夏休みを有意義にするため、主体性を育てるため……そう言われると反対しにくい。しかし、本当に子どものためになったのか、本人はやりたかったのか。どのような力が育ったのか、家庭の負担に見合う効果があったのか、そこを毎年確かめている学校が、どれほどあるだろうか。
「子どものため」は、続けることを正当化する免罪符ではない。本当に子どものためになっているかを問い直すための出発点でなければならない。
学校は子どもの余白を課題で埋めたがる
学校が自由研究をやめられない背景には、もう1つ、余白への不安がある。夏休みに何も課さなければ、子どもが怠けるのではないか。時間を無駄にするのではないか。学力が落ちるのではないか。学校が教育を放棄したと思われるのではないか。
その不安から、大人は空白を見ると課題で埋めようとする。ドリルをさせる、日記を書かせる、読書感想文を出す、自由研究をさせる……夏休みという大きな余白を、そのまま子どもに渡すことに、私たちは罪悪感すら抱いているのかもしれない。
しかし、余白は無駄ではない。余白とは、単に何もしない時間ではなく、使い道があらかじめ決められていない時間である。

