江戸時代、板橋区域において街が発展したのは中山道と川越街道の宿場町で、板橋、大山、仲宿一帯が栄えた。本蓮沼駅あたりは農村で、大根の産地として知られた。
現在、旧中山道は本蓮沼駅の南で新中山道(国道17号)と合流しており、新中山道を隣駅の志村坂上駅あたりまで北へ進むと、志村一里塚がある。
1604(慶長9)年、徳川家康は五街道を整備し、日本橋を起点に一里ごとに一里塚を設けた。志村一里塚は中山道で3番目の一里塚である。
明治時代以降の市街地形成も中山道、川越街道を軸に進んだ。加えて1914(大正3)年に東上鉄道(現・東武東上線)が開通し、板橋区域では下板橋・成増・上板橋駅が開業。上板橋・赤塚方面の宅地化が進んだ。
一方、志村地区は1925(大正14)年、危険物取扱工場や化学工業などの建設が認められる「甲種特別工業地域」に指定された。昭和初期から工場が増え、農村から工業の街へと姿を変えていく。
志村本蓮沼町(現・蓮沼町)には、1933(昭和8)年に東京光学機械(現・トプコン)の工場が移転してきた。この地が選ばれた理由として『東京光学五十年史』には、「周囲は一面畑であって、しかも高台で、遠く埼玉方面が見通され、光学機械の調整には好都合とのことで決定をみたのである」と記録されている。この一文から、当時の街の様子がうかがえる。
都電から都営三田線へ
1923(大正12)年の関東大震災を機に板橋区域に人口が増え、中山道に乗合バスが走るようになると、道幅の狭さが問題になる。そして中山道の拡幅が始まり、1938(昭和13)年に新中山道が完成した。

