「新しいマンションに移ってからは、ズッコさんによって切り離された人たちも、少しずつ戻ってきました。最終的にはみんなに見守られて、仲違いも水に流して、誰からも愛される猪木さんとして亡くなられました。元IGFの幹部には猪木さんサイドと裁判沙汰になっていた人もいたんですけど、それでも『猪木さんが謝ってくれて、戻ってきてくれたならそれでいい』と。
僕も含めていろんな人が猪木さんと連絡が取れなくなっていた時期、ズッコさんが猪木さんの携帯を取り上げていたらしいです。そうなると、猪木さんの人間関係は完全にズッコさんがコントロールする形になってしまう。猪木さんがよくてもズッコさんがダメと言ったらダメ、という状況でした」
アントニオ猪木は間違いなくカリスマだった。しかし、カリスマも自分1人では生きられないし、カリスマであり続けることはもっと難しい。優秀なブレーン、実務を支えるスタッフがいてこそ、カリスマは輝くのだとサイモンは実感したという。
「ごく少数の身内が周りを固めちゃうと、入ってくる情報は少なくなるし、偏ってしまう。IGF旗揚げ後の何年か、猪木さんが絶好調だった時期は、ズッコさんのバーで飲みながら、周りにスポンサーとか企業の社長さんとかいろんな人がいて、ワイワイやっているなかで面白い企画が出てくる感じでした。
でも、そういう人たちは切られていってしまった。甘井さんはちゃんと仕事の話ができる人だったけど、ズッコさんはどうしても好き嫌いで人を判断するタイプだった。僕も猪木さんと近い関係性で、気楽に話せる人間ということで煙たがられたんでしょうね。(16年に)寛子と離婚したから、さらに切られやすい立場になっていましたし」
田鶴子夫人の介入でIGFとの関係が悪くなっていった猪木だったが、サイモンはその時期の猪木に違和感を覚えていたという。
「スポーツ新聞や専門誌の記事で猪木さんのコメントを見ると、『何かおかしいな』という感じでした。これまでの猪木さんだったら物事を大きく捉えていたのに、考え方が小さくなっているなと。大きい夢を語るのが好きな人だったのに、小さいビジネスのことを気にしていた。違和感を覚えたし、残念でしたね」
ジェロム・レ・バンナの対戦相手に猪木が立候補
猪木が世を去ったのは79歳の時。健康であればあと数年、新たな体制で何かに取り組むこともできたかもしれないと、サイモンは述懐する。

