この見立ては、当時としては妥当だった。70年代のつくばは「陸の孤島」と呼ばれ、商業機能が乏しかった。研究者や住民が買い物をするには、土浦へ出るか、2時間以上かけて東京へ向かうしかなかったからだ。
「研究はつくば、消費は土浦」という役割分担は、現実に即していた。
土浦は科学万博を「商機」と考えた
85年3月、筑波研究学園都市で「国際科学技術博覧会(つくば科学万博)」が開幕する。開催期間中の来場者数は2000万人超。全国から人が集まる一大イベントだった。土浦は、この万博を「自分たちの商機」だと考えた。
当時の土浦商工会議所会頭・木村実氏は、85年1月のインタビューで、「駅前から亀城公園に至る街路のモール化」を打ち出している。
さらに当時の土浦市長・箱根宏氏は、万博会場と土浦を結ぶ新交通システムに対し、「15億〜16億円を市で出す」とまで語っていた。
行政も商工界も、「万博客を土浦へ呼び込む」という目標を掲げていた。実際、この時期には駅前で大型開発が相次ぐ。85年に開業した川口ショッピングセンター「モール505」、土浦からつくばを結ぶ高架道路の「土浦ニューウェイ」。現在の土浦駅前を特徴づける施設の多くが、この時代の投資によって生まれた。
しかし、土浦が人流を取り込もうと動いていた頃、つくばはまったく別の方向を向いていた。
