1973年12月。オイルショック後のインフレ圧力と人心不安を鎮めるため、日本銀行は公定歩合を一気に2%引き上げる計画を立てた。だが、74年度予算編成中の大蔵省は、大幅利上げで国債の利払いが膨張するなどとしてこれに難色を示し、日銀との対立が続く。
事態を打開したのは、「2%は認めるが、国債の発行金利や預金金利の見直しは切り離して考える」という驚きのアイデアだった。
当時、総務部長(現在の企画局長)だった三重野康(のち総裁)が全国の支店長に宛てた機密文書に、こう書かれている。
〈大蔵省としてはなお国債の利上げはできるだけ小幅にしたい考えで、省内では表面金利0.75%、応募者利回り0.718%引き上げの線で検討が行われています〉(12月21日付「総務部長私信」)
結局、日銀は国債発行金利の引き上げ幅を0.75%にとどめ、これと整合性が取れるよう2年物定期預金の金利改定幅も0.75%とすることに同意する。1年以下の定期預金金利についても1%の引き上げ幅に抑え込んだ。
これに伴い、短期貸出金利は公定歩合と同じく2%引き上げられたが、企業の設備投資に影響を与える長期プライムレート(最優遇貸出金利)は比較的小幅な上げとなった。
三重野は「長期金利が短期金利に比べいかにも低水準といったことにもなりますが、公定歩合の上げ幅がかつてない大幅なものであるだけに、ある程度の無理が出てくるのはやむを得ない」と同文書に書いている。すべては規制金利だったからこそ実施できた“荒業”だったが、一方で金融引き締めの効果をそぐ一因ともなった。
「狂乱物価」の実体験 バブル潰しにつながる
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