さらに、発言の理由も説明されなかった。その結果、バラエティ的な冗談としての受け皿がないまま、「嫌いな芸能人として名指しされた」という事実だけが残ってしまった。それが鈴木にとっては我慢ならないものだったのだろう。
この構図は、少し前に起きた中山功太の騒動とも重なる。ABEMAの番組内で、中山が先輩芸人から長年いじめを受けていたと語った一件では、番組内では名前が伏せられていたにもかかわらず、ネット上で犯人探しがどんどん過熱していった。
その後、サバンナの高橋茂雄が自分のことだと認め、謝罪する事態になった。こちらはただの悪口や陰口ではなく、過去のいじめの告発として受け止められたため、さらに深刻な問題として広がっていった。
この2つの騒動から見えてくるのは、今の時代には、テレビなどのメディアの中だけで完結する「内輪の話」が成立しづらくなっているということだ。
すべてを無難にすると面白さが失われる
かつてなら番組の流れの中で消費されていた軽い発言も、今は放送直後に発言だけが切り取られ、ネットニュースになって、SNSで拡散される。スタジオの空気、前後の文脈、出演者同士の表情、編集上の意図は抜け落ち、「誰が誰を嫌いと言った」「誰が誰にいじめられたと言った」といった情報だけが独り歩きする。
テレビ側からすれば、これは非常に悩ましい状況である。バラエティはもともと、多少の失礼さ、過剰さ、危うさを含んだ表現によって面白さを作ってきた。
すべてを無難で安全なものにすると、番組の面白さの核が失われてしまう。出演者が本音らしきものを語らず、誰も傷つかない無難な会話だけをしていれば、視聴者は退屈する。だからこそ、制作側が少し踏み込んだ話を求めること自体は、バラエティの作り方として理解できる部分もある。
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【踏み込むには緻密さが必要】
