でも、自分の認知バイアスに無自覚なまま18歳まで来てしまった人にとっては、この一文は、急に目の前に突き出された鏡のようなものです。映っているはずの自分の姿が、うまく見えない。だから書けない。僕は完全に、後者でした。
「人への理解度」が問われる問題
東大の英語の問題には、ときどき、こういう種類の問題が紛れ込んでいます。表向きは英作文や読解の問題なのですが、よく見ると、問われているのは英語力ではなく、人間に対する理解の解像度だったりする問題です。
11年には「他人の痛みを理解することは不可能である」という言葉についての問題が出ましたし、18年にはシェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の「人の目は自分自身を見ることができない、他者という鏡を通してしか」というセリフについての問題が出ました。22年は「芸術は社会の役に立つべきだ」という言葉についての問題でした。
これらの問題は、思考力という言葉だけでは捉えきれない種類の力です。人生観の成熟度と呼ぶのが、いちばん近い気がします。
それでも、これらの問題が18歳時点で解ける人間はいたわけです。
それは、英語力というよりも、人生経験の差であるように感じられます。家族と意見が割れたとき、自分の側にも偏りがあるかもしれないと立ち止まったことがあったりとか、偏見で誰かを不当に差別してしまっているのかもしれないと自分に対して疑いの目を向けた経験があるとか、そういう小さな経験の積み重ねが、たった60語の英語の中ににじむのだと思います。
僕は、その地点にまだ立てていませんでした。だから、落ちた。 英語力で落ちたのではなく、人間力で落ちたのだ、というのが、いまの僕の実感です。
東大に行くかどうかは別として、「人は見たいものしか見ない」という問いは、誰もが一度はくぐり抜けておくべきものだと思います。自分自身もその例外ではないと気づけたとき、世界の見え方は少しだけ変わるはずです。

