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天下統一を目前にして倒れた織田信長 「冷徹さ」「残酷さ」「先進性」のいずれも、実はそんなでもなかった"3つの論証"

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信長を彩るエピソードの多くは、他の戦国大名にも当てはまるという(写真:kumayosi/PIXTA)
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豊臣秀吉による天下統一まで全国的なデータはないが、1598年の太閤検地の数値を参考にすると、濃尾平野の穀倉地帯を有する尾張は1国で約57万石。対して駿河は約15万石、遠江は約2万5000石、三河は約29万石なので、3国合わせて約46万5000石だ。

当時の多くの国は10~20万石で、人口の多い大和(現在の奈良県)、面積が広い陸奥(現在の青森県、岩手県、宮城県)などを除けば、50万石以上の国はわずかしかない。

しかも信長は、桶狭間での勝利後、早い段階で約54万石の美濃(現在の岐阜県南部)も手中に収めた。農業生産力が高ければ当然ながら金もある。金があればそれだけ多くの兵員を雇い入れたり、大量の武器を購入できる。

もちろん信長自身の力量も大きかったろうが、戦う前から「所領ガチャ」でレアな当たりを引いていたといえる。

実の弟は殺したけど使える有力者には甘い

信長の強さの裏には、個人の才覚だけでなく、もとからの国力があった。それでは、人格の面での実像はどうだったのか? 通説では以下のようなイメージだろう。

①とにかく俺様系のドS。敵でも身内でも逆らう者は許さない。

②神も仏も恐れず、一向宗や比叡山延暦寺を容赦なく焼き討ち。

③近代的な思考の持ち主。西洋人の知識や技術を採り入れて商業を振興した。

もっとも、江戸時代に太田牛一が著した伝記の『信長公記』、数々の書状などを検証すると以上のようにはいい切れない。また、ほかの大名にも同様の傾向は見られる。

まず①。信長は尾張の守護代である織田氏の傍流に生まれ、18歳のとき父の信秀が死去すると、一族を仕切っていた織田信友は、「信長はダメだ、弟の信勝のほうに家督を継がせろ」と主張した。

そのため一族内の争いになり、実の弟である信勝を謀殺してしまう。なるほど確かに、初期のころから親族であろうとも容赦はない。

しかしながら、信勝の腹心だった柴田勝家は、父の信秀の代からの有力者だったので、処刑もせず自害を命じることもなく召し抱えた。その後、1度は信長に屈した松永久秀が、室町幕府将軍である足利義昭らと連携して「信長包囲網」に加わり、反旗を翻したときも、2度まで許している。

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