鎌倉時代に突如襲来した「元寇」は、中世日本における最大の危機である。世界の半分を支配していたモンゴル帝国の侵略を受け、日本は滅びるか否かの瀬戸際に追い詰められたのだ。
しかし、神風により勝利した。モンゴル軍に対し兵力や兵器、戦術で劣る日本勢は敗北の寸前まで追い詰められる。それが突然の暴風雨により救われる。神風がモンゴル上陸船団を覆滅し、日本は勝利を収めた。そう理解されている。はたして、この神風伝説は正しいのだろうか。
実態に即したものとは考え難い。というのも、状況からすれば日本の防衛戦は成功しており、神風は吹かずとも勝利は期待できたからだ。
博多湾の防備
もちろん、「防衛戦成功」との判断に戸惑う読者もいるだろう。戦前の教育では神風、戦後教育でも暴風雨で日本は辛くも勝利したとされてきたからだ。
しかし、実相を突き詰めればその結論に至る。日本は博多湾の戦いで、すでにモンゴルの侵攻を頓挫させていた。神風が吹かずとも勝利していた可能性は極めて高い。これは、日本側の戦力とモンゴル側の戦力、戦闘の経過、その後の推測で説明できる。
第1に、日本側はそれなりの戦力を用意していた。モンゴルの侵攻必至とみて戦争準備に力を尽くしていた。当然ながらこれは元寇において日本側を有利にする材料である。
これは最初の元寇である「文永の役」(1274年)も例外ではない。侵攻の前には一応の準備は完成している。
まず、「モンゴルが上陸する」と判断していた博多湾では、侵攻以前から防備体制を敷いていた。2年前から九州武士団の事前配備や東国武士団の下向も始まっている。武芸の水準や士気は極めて高い。九州の武士や武装民は尚武の気性、はっきり言えば獰猛である。
東国から下向した武士も変わらない。源平合戦(1180~1185年)では「親が討たれてもその屍を子が乗り越えてくる」と評された。モンゴルに服属した高麗も元に対して日本人の性質を、「嗜殺」つまり「殺生を好む」と報告している。
おそらくだが、兵糧も用意していた。現在の福岡県太宰府市などに築かれた古代の城「水城」には、大量の兵糧米があった。大宰府や香椎(かしい)宮、筥崎(はこざき)宮、住吉社、警固(けご)社にも同様の集積を進めていただろう。寺領の年貢米を兵糧米として徴収された旨を荘園主に報告する文書も残っている。
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【上陸したモンゴル側の規模】
