ただ、神風は常識として今なお通用している。「日本はモンゴルとの戦いで敗北寸前にあった。それが奇跡の神風ないしは暴風雨で救われた」との認識は強い。それはなぜだろうか。
まず、鎌倉時代の中・後期に成立していたとされる寺社縁起である『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』で、日本勢の戦いが過小評価されたことである。同書は元寇の戦闘を具体的に記述した数少ない文献だ。そのために研究ではつねに参照されている。
ただ、その記述は神仏、なかでも八幡大菩薩の加護の強調で一貫している。そして、その裏返しとして武士たちの戦いは低く評価している。
例えば、今に伝わる武士団の後進性はその影響だ。モンゴルの集団戦法に対して日本勢は一騎打ちを挑もうとした。鏑矢(かぶらや)での矢合わせを試みた。しかもその弓の威力も弱い。火薬を知らず「てつはう」に驚いて肝をつぶした。事実には基づいているのだろうが、その脚色は強い。
「日本側の戦況不利」の常識も同様である。同書による意図的、あるいは無意識の武士への低評価の影響を受けた結果だからである。
神風が史実認定された
次に、『元史』『高麗史』の記述の合致により神風が史実認定されたことだ。
文永の役に関しては『高麗史』にその記述がある。「夜間に大風雨となり輸送船が岩や崖に衝突して多数を失った」としている。弘安の役では『元史』も暴風雨に遭ったとしている。季節からすれば台風である。
それにより暴風雨の発生と、モンゴル軍の破船は歴史的事実として認識されるようになった。文永の役で暴風雨に触れた日本側文献には、鎌倉時代の公卿・権中納言の勘解由小路兼仲(かでのこうじかねなか)の日記である『勘仲記』に限られるが、『高麗史』の記述と合致した以上、証拠ありとされたのである。
そのうえで、神風による決着を強調し、同時に戦闘の不利も印象づける結果となった。暴風雨の実在が明らかとなった際に「それが勝利の決め手である」「日本勢の不利を覆した」といった随伴する評価も無批判で受け入れられたためだ。
次ページが続きます:
【元寇・神風が持つストーリー性】
