弘安の役では上陸そのものが、ほぼ不可能となった。博多内湾の海岸線を防塁で固めたため、モンゴルの小舟は接岸できない。湾外への上陸を試みても、名誉や恩賞を目当てに押し寄せる日本勢により頓挫している。
さらには軍勢の質にも問題がある。文永の役では服属国高麗や占領下の漢人、弘安の役では滅した南宋出身者も含んでいる。当然だが戦意は高くはない。日本勢のように敵の首を斬り取る熱意は、ありえない。
日本勢は圧倒されていなかった
第3に、実際の経過も日本側の善戦を肯定している。悪条件の文永の役ですら、日本勢は現地で圧倒されていない。たしかに戦況は有利ではない。戦術や兵器といった戦争技術の後進性を露呈した形である。また博多の炎上や水城への日本勢撤退もあった。
ただ、モンゴルの攻勢には拮抗していた。討死も相次いだが、軍勢が押し包まれるような大敗北はない。水城への撤退戦でも追い打ちは受けていない。
仮に、侵攻が続けば翌日も戦闘を続けたことは間違いない。モンゴル側の船団撤退からすれば、その戦いも水城での防衛戦ではない。再び海岸付近まで進出する積極的な水際防衛戦となる。
そのうえで、博多で敗北しても致命的な事態には至らない。2日目以降は九州各地から、1カ月もすれば本州からの増援が筑前に到着する。そうなればモンゴル軍は敗北は免れない。増援で現れた無傷の日本勢と戦い続ければ、いずれはそうなる。
弘安の役に至っては日本の完封勝ちである。モンゴルは博多湾への上陸そのものができなかった。仮にモンゴルが上陸に成功しても、やはり日本勢の増援に撃破される。
神風は吹かずとも勝利は期待できたのである。
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【「神風」への疑問】
