第2次侵攻にあたる弘安の役(1281年)では準備はさらに進む。配備戦力を増やしたうえで博多湾には防塁を築いている。さらにそのための租税措置までが手当されていた。
増援もあらかじめ計画している。モンゴルの侵攻に合わせて九州全土や本州から幕府や朝廷系の武士団を博多方面に進める内容である。
今で言う総動員令の手はずも整っていた。朝廷と幕府は全国規模の動員について事前に合意している。通信手段の制約から戦勝後となったが、実際に守護に向けて動員令を発出している。挙国一致体制とも言える。朝廷と幕府、寺社は協力して戦う姿勢にあった。ロシアのように、政治権力や社会階層にある矛盾を突かれるおそれはなかった。
実際には1万未満だったモンゴル上陸軍
第2に、モンゴル側の上陸戦力はそれほど強力ではなかった。文永の役では高麗軍を含めて約3万人、弘安の役では14万人以上を日本に差し向けてはいる。ただ、上陸できた戦力はそれほどではない。
まず、人数のすべてが戦闘部隊とは限らない。モンゴル側戦力には輸送船につく水夫や、陸上部隊でも命令伝達のための旗鼓を担当する将兵、食料や水の運搬といった支援や補給に従事する雑兵も含んでいる。
上陸作業の効率も問題となる。モンゴル輸送船は当時の商船そのままである。直接海岸に接岸するどころか、人が歩ける程度の浅瀬までも接近できない。そのため沖合にいかりを入れ、そこから小舟に乗り移り海岸まで移動する必要がある。
文永の役では、戦闘が一時終了する日没までに1万人も上陸できてはいない。しかも当日には手間がかかる馬まで上陸させている。ほかにも上陸海岸には日本勢が押し寄せる状態でもあった。小舟の接岸や揚陸も順調には進まず、上陸の作業サイクルも低調となる。それからすれば、6000人から7000人といったあたりだろう。
戦力比は日本と同等程度である。博多正面の戦いに参加した日本側戦力について確認できるのは1200人、実際にはその3倍が集まったとみて3600人とする話がある。加えて現地寺社勢力も参戦しており、職能民や富裕者も武装参加した可能性もある。
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【実際の戦況は?】
