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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

死者2500人超の凄惨な《姉川の戦い》で信長を喜ばせた家康の武功

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騎馬武者
その活躍は「三州徳川家康公に勝る者相無し」とまで書かれています(写真:Josiah / PIXTA)

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NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、天下人・豊臣秀吉の弟である豊臣秀長を中心に、戦国時代のど真ん中で天下統一を果たした兄弟の軌跡にスポットライトがあてられています。そんな2人にまつわる物語を史実に沿って紹介する連載「戦国最強の兄弟の軌跡」。今回は、姉川の戦いでの豊臣・家康両人の活躍を解説します。
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浅井・朝倉連合軍VS織田・徳川連合軍が衝突

元亀元年(1570)6月27日、越前国の朝倉方からの援軍(朝倉景健の軍勢8000)を得た浅井長政は、織田信長と戦をするため動き出します。浅井方の軍勢は5000ほどでした。信長は当初、長政の居城・小谷城の城下を焼き討ちし、浅井方の主力を誘き出そうとしていましたが、長政はその手には乗らず。信長は小谷から退き、要所にある浅井方の横山城(滋賀県長浜市)を包囲します。

長政は朝倉方からの援軍到着を待って、前述のように信長と対決せんとするのです。信長にも徳川家康が軍勢約3000で加勢していました。信長軍は3万ほどだったと推測されています。信長と家康は竜ヶ鼻(長浜市)に布陣し、横山城を包囲していました。

一方、長政は出陣し、朝倉景健が拠る大依山に移ります。『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)によると、信長は浅井・朝倉連合軍は、大依山から陣所を引き払って退却するものと思っていたようです。ところが、6月28日の未明、浅井・朝倉軍は、姉川を前にして、野村・三田村に進出、陣を整えたのでした。

織田・徳川連合軍はこれに攻めかかります。姉川(滋賀県長浜市)の戦いの始まりです。

午前6時頃から始まった戦いは、乱戦となります。『信長公記』には、両軍は散々に入り乱れ、黒煙が立ち、しのぎを削り、つばを割りと激戦の様が描写されています。

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【織田方は約1000人もの敵を討ち取った】

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