浅井・朝倉連合軍VS織田・徳川連合軍が衝突
元亀元年(1570)6月27日、越前国の朝倉方からの援軍(朝倉景健の軍勢8000)を得た浅井長政は、織田信長と戦をするため動き出します。浅井方の軍勢は5000ほどでした。信長は当初、長政の居城・小谷城の城下を焼き討ちし、浅井方の主力を誘き出そうとしていましたが、長政はその手には乗らず。信長は小谷から退き、要所にある浅井方の横山城(滋賀県長浜市)を包囲します。
長政は朝倉方からの援軍到着を待って、前述のように信長と対決せんとするのです。信長にも徳川家康が軍勢約3000で加勢していました。信長軍は3万ほどだったと推測されています。信長と家康は竜ヶ鼻(長浜市)に布陣し、横山城を包囲していました。
一方、長政は出陣し、朝倉景健が拠る大依山に移ります。『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長の一代記)によると、信長は浅井・朝倉連合軍は、大依山から陣所を引き払って退却するものと思っていたようです。ところが、6月28日の未明、浅井・朝倉軍は、姉川を前にして、野村・三田村に進出、陣を整えたのでした。
織田・徳川連合軍はこれに攻めかかります。姉川(滋賀県長浜市)の戦いの始まりです。
午前6時頃から始まった戦いは、乱戦となります。『信長公記』には、両軍は散々に入り乱れ、黒煙が立ち、しのぎを削り、つばを割りと激戦の様が描写されています。
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【織田方は約1000人もの敵を討ち取った】
