そして激しい戦いの末、織田方が浅井・朝倉軍を追い崩したのでした。同書によると、織田方は約1000人もの敵を討ち取ったようです。敵を追い散らすと、信長は再び小谷周辺にまで迫ります。
しかしこの時も、同城を力攻めすることなく、麓を放火しただけでした。小谷は「高山節所」(高山難所)であり、一気に落城させることが困難と思われたからです(『信長公記』)。よって小谷攻めは断念し、横山城を攻め取ったのでした。
横山城を開城させた信長は、城番として「木下藤吉郎」(秀吉)を入れ置きます。ここからも、無理な戦いはしない信長の姿が垣間見えます。信長はジワリジワリと浅井長政を追い詰めていったのです。
軍師として名高い竹中半兵衛の作戦
さて、信長・秀吉に仕えた前野一族の記録『武功夜話』にも姉川の合戦が記載されています(『武功夜話』は偽書という説もあり、信憑性は低いと言われています)。
それによると、夜中、横山より姉川の河原まで進出した木下藤吉郎の軍勢は「部署に付き」命令を待っていたようです。木下軍の前方には、浅井方の磯野員昌が2000の軍勢で控えていました。
磯野員昌は猛将であり、かつ領地に乱入され、在家を焼き払われた遺恨もあるので、木下勢目がけて猛攻をかけてくることは必定だったとあります。
藤吉郎は大軍同士の野戦は初めてとして、家臣に意見を求めます。蜂須賀小六や前野将右衛門尉などは「浅井の本陣を目指し、浅井久政(長政父)の首を獲るべし」と強硬論を唱えます。
一方、秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛重治は、浅井・朝倉軍の猛攻を予想し「横一陣の陣形を速かに立て直」すことを進言するのでした。この半兵衛の献策を受け入れ、騎馬武者60余は前方に、残りの騎馬武者50余は円陣を組むことになります。円陣を組み、秀吉を囲んだのです。そしてついに戦いは始まります。敵味方は入り乱れ、誰が敵か、誰が味方か定めがたい乱戦でした(『武功夜話』)。『信長公記』の記述を思い起こさせます。
予想通り、木下軍は磯野員昌の軍勢と戦うことになります。木下軍は円陣となっていましたので「緩急自在」に立ち回ることができました。両軍は火花を散らして戦い、死傷者が続出します。
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【半兵衛のおかげで…】
