慶長4年(1599)に建てられた醍醐寺の三宝院唐門には「十六葉菊」と「五七の桐」が描かれており、豊臣氏の栄華を今に伝えるシンボルになっている。
『大坂城図屛風』に描かれた大坂城には、天守の外壁に菊桐紋が交互に付いている。伏見城や聚楽第といった豊臣系の城の跡地からも、菊桐紋の瓦が出土している。
ただし、天皇や皇室の象徴である菊紋をみだりに使用するのは畏れ多かったようで、公的には菊紋の使用を控えていた。
独自の「太閤桐」で自らの権威を誇示する
「五七の桐」は中央の花茎に7つの花、左右の花茎に5つの花があり、「五三の桐」よりも格が高かった。秀吉はこの「五三の桐」にアレンジを加え、「太閤桐」と呼ばれる家紋を用いるようになった。
天皇から下賜された家紋を改変できる権力があることを広く知らしめるため、独自の桐紋を創出したと考えられる。
秀吉は桐紋を愛用し、衣裳や建造物などに用いた。山口県の毛利博物館が所蔵している『紅萌葱地山道菊桐文片身替唐織』は毛利輝元が秀吉から拝領したと伝わる唐織で、桐紋と菊紋が配されている。
前田利家や伊達政宗など多くの有力家臣に桐紋を下賜したが、これは自らの権威を誇示するとともに、天皇を補佐する関白として、諸大名に忠誠を誓わせる狙いがあったとみられる。
桐紋を授かった大名の中には、自分の家臣に桐紋を与える者もいた。その結果、桐紋の権威が失墜する恐れが出てきたので、桐紋をみだりに使用することを禁止する命令も出された。
江戸時代に幕府が編纂した大名や旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』によると、約2割の大名・旗本が桐紋を使用していた。
ただし、足利将軍家や朝廷から拝領した家もあるので、すべて秀吉から下賜されたわけではない。桐紋を秀吉から下賜されたことを明記している家も、前田氏や伊達氏などごくわずかである。

