ぽつりぽつりと語った。弁当、水筒を持って百貨店やアパレルメーカーで働いた。催事商品売り場をまわるようになると、一度入った売り場の人が「来年も来てね」と予約を入れてくれるようになった。万年、白シャツに黒パンツの装いで、あちらこちらの売り場に現れるロコリさんについたあだ名は、さすらいのハウスマヌカン。
35歳から50代半ばまで、稼いだ給料の8〜9割を返済に充てる生活を送った。「1日1万円もらえるところもざらにあって、残業もどんどんしていいから、けっこう稼げたんですよね」とあっけらかんと語る。
返済に追われた暗黒時代を淡々と振り返るロコリさんだが、落ち込むことはなかったのだろうか。
「気持ちが落ち込むと俯きがちになるでしょ。昔は電柱の下の方に消費者金融会社のポスターが貼ってあって、それがやたら目に入ってくるの。なんだか魔界に引きずりこまれるようで……もう下向いて歩いたらいけない、絶対目線を上げて歩かないといけないと思った」
電停から家まで歩く夜道では、「大丈夫大丈夫」と口に出して唱えた。「どうするのあなた」と深刻なことを言ってくる人とは距離を取り、朗らかな人たちと過ごすようにした。励まされ、時にはごはんをご馳走になった。
「周りの人に恵まれて、普通の顔でいられた」
モダンガールだった母が認知症に
ロコリさんの母はモダンガールだった。女性ドライバーが珍しい時代に運転免許を取り、会社の社長付き運転手を務めた。60代でカラオケに目覚め、師範の免許を取って開いた教室を、85歳まで続けた。ロコリさんにとって母の生き方はお手本だった。
借金返済が落ち着いてきた頃、その母が認知症と診断された。ロコリさんは60歳になっていた。
「目の前が暗くなるよね。どうしようっていうか。週3〜4でデイサービスに通う生活が10年くらい続いた」
それからは母の介護に向き合う10年だった。最初の頃は、母とのエピソードをおもしろおかしく文章にしたためて、「認知症の家族会」の会報誌に投稿した。それが好評で、18回まで続いた。しかし、母の症状が深刻になるにつれて、笑いに変えられなくなってきた。
「もうなんか怒りが込み上げる。毎日が自己嫌悪……自己嫌悪も忘れるぐらい。優しくなれない。家族はみんな、多分いっしょだったと思う」
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【10年の介護生活を終え…思いもよらぬ出会いが】
