「もう帰れ。うつっといけねえから」 朝ドラ「風、薫る」 明治期にコレラの流行招いた海外船の暴挙
だが、江戸後期のコレラ流行は、まだほんの序章に過ぎなかった。本当の地獄は明治時代に訪れた。
政府が統計を取り始めたのは、国家の基盤ができてきた1877(明治10)年からだが、その年のコレラ患者の数は1万3816人、死者数は8027人にのぼった。あの西南戦争中に軍隊内でコレラが発生したため、帰還兵が帰国先で感染を広げたといわれている。
1年で10万人以上の死亡者が出たワケ
その翌年こそ感染は落ち着いたものの、2年後の1879(明治12)年は、目を疑うような統計結果となっている。
患者数は16万2637人に上り、死者数はなんと10万5786人。同規模の感染は1886(明治19)年にも起こっており、そのときの患者数は15万5923人で、死亡者数にいたっては10万8405人と、明治以降のコレラで最も多かった。
爆発的にコレラが流行した背景には、実は外交問題がからんでいた。
コレラの感染をなんとか防ごうと、明治政府は1878(明治11)年、各国官吏を含めた共同会議の場で、検疫規制を作成した。
海外からの感染経路を断つために、適切な手段だったが、これにイギリス公使のハリー・パークスが反対。当時、結ばれていた不平等条約を根拠に、イギリス人が日本の法規を侵しても何ら問題ないという態度を貫いた。
そして翌年、事件は起きた。7月15日、検疫所に停泊させていたドイツ船ヘスペリア号が、無断でそこを出て、横浜に入港してしまったのである。
検疫無視の指示を出したのは、ドイツ公使だ。コレラ検疫を理由に日本側が規制を強めるのを警戒したがゆえの行動だった。感染リスクよりも、自国の利益と面子を優先させた愚挙であった。



















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