「もう帰れ。うつっといけねえから」 朝ドラ「風、薫る」 明治期にコレラの流行招いた海外船の暴挙

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「虎狼痢(ころり)」「暴瀉病(ぼうしゃびょう)」「虎烈刺(これら)」「虎利刺(これら)」……。

表記はバラバラだが、これらの恐ろしげな用語は、みな「コレラ」のことを表している。江戸時代後期から明治時代にわたって、大流行した急性伝染病だ。

19世紀初期から20世紀初期にかけて、コレラが世界的に流行すると、日本でもコレラ患者が増加し始めた。感染後、激しい下痢と嘔吐が始まり、やがて全身痙攣を引き起こすというもので、死亡率も高かった。

第1次流行は1822(文政5)年のこと。まだ人や物の交流も盛んではなかったため、感染者は九州・中国地方、近畿地方にとどまり、江戸まで広がることはなかった。

開国で海外船が入港→コレラが全国へ波及

それが、第2次流行を迎えた1858(安政5)年となると、事情が変わってきた。国内の交易はもちろん、6月には日米修好通商条約が調印され、正式に鎖国が解かれていた。

早々と条約調印の1カ月前から、アメリカ船ミシシッピー号が長崎港へ入港。その船員が感染源となって、コレラは長崎から全国へと波及した。

その結果、江戸では、3万~4万人に上る死亡者が出たともいわれている。感染すれば「ころり」と死んでしまうことから、「コロリ(虎狼痢)」と恐れられたのも、この頃である。発病後3日目で死ぬため「三日コロリ」という呼び名もあった。

コレラがいかに脅威だったかは、「項痢(ころり)流行記」の口絵にある「荼毘室混雑の図」を見ればよくわかる。そこでは、死者が多すぎて、大混乱に陥った江戸の火葬場が生々しく描写されている。

『荼毘室混雑の図』(所蔵:国立公文書館『 安政箇労痢流行記概略』)
『荼毘室混雑の図』(所蔵:国立公文書館『 安政箇労痢流行記概略』)

また、「流行病追討戯軍記(りゅうこうびょうついとうおどけぐんき)」という戯作も作られた。暴れまわる疫病軍に対して、大将軍が病除の軍を結成して、それを退けるという読み物で、疫病になんとか打ち勝とうという人々の気持ちをうかがい知ることができる。

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