父は下剋上に成功、子の長政は劣勢でも大勝利…「浅井氏三代」愚鈍とされた「浅井久政」の意外な手腕

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終始、六角氏に圧倒されたことから「父の亮政に比べて、子の久政は……」と冒頭のように厳しい評価をされがちだが、リーダーの仕事は外政だけではない。実のところ、久政は決して領主として劣っていたわけではなかった。

天文22(1553)年には、13カ条からなる徳政を実施。父・亮政が行った政策に新規で5カ条を追加して、発展させている。

また、用水をめぐる争い事が起きると積極的に介入して平和裏に解決させるなど、国人衆の調停役として、存在感を発揮。秩序だった領国支配を行っている。

浅井長政と織田信長の共通点とは?

「機を見るに敏」とばかりにチャンスを生かした初代の亮政が浅井家の基礎を築き、息子の久政は内政面でその手腕を発揮。さらにその後を継いだ賢政はといえば、六角からの支配から脱するべく動き出す。

15歳で元服すると妻と離別し、併せて永禄3(1560)年に家督を継ぎ、翌年には「賢政」から「長政」へと改名。離婚も改名も、六角氏との決別を対外的に強く打ち出す行動といえよう。

改名後は、六角の影響が見られた花押(かおう)のデザインまで変更したという。『浅井氏三代』(吉川弘文館)で、宮島敬一が次のように指摘している。

「この時(永禄四年)、花押も大きく変化する。賢政の時代は新九郎および備前守となった後も足利様の武家花押で、六角定頼の影響を受けた父久政と同じ下向きに湾曲したものであった。しかし、長政になると花押を変える」

久政から長政への家督相続にあたっては、六角氏への対抗を望んだ家臣らが長政を擁立し、久政を強引に隠居させた……とする見方もある。六角氏に対するスタンスについて浅井氏の内部で路線対立があり、長政が擁立されたのは確かそうだ。

だが、久政は隠居後も長政と連署で文書を出すなど、影響力を保持していることを思うと、紆余曲折はあったにせよ、承継自体は円満に行われたのだろう。

そうして六角氏から離れた長政は、永禄3(1560)年8月の「野良田の戦い」では初陣でありながら、六角軍を撃破。2万5000人を誇る六角軍に対して、浅井軍は半分にも満たない兵力で勝利した。

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