父は下剋上に成功、子の長政は劣勢でも大勝利…「浅井氏三代」愚鈍とされた「浅井久政」の意外な手腕

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浅井家初代・浅井亮政は延徳3(1491)年、京極高清の家臣である浅井直種のもとに誕生。亮政が20代を迎える頃、京極氏を二分するお家騒動が起こる。

高清が長男の京極高広(高延)を疎んじて、側近の上坂信光とともに、後継の座に次男の京極高慶(高吉)を据えようとした。

そんな情勢の中で、亮政は同じく近江国衆の浅見貞則とともに、長男の京極高広の擁立に動く。小野江城に立て籠もって国人一揆を起こすと、高清らの戦に勝利。クーデターを成功させている。

すると、今度は執権となった浅見貞則が専横を振るうようになったので、亮政はまたも迅速に行動を起こす。かつて対立した上坂信光と手を組み、実権を掌握。浅見氏を北近江から追放すると、亮政はほかの国人とは一線を画す有力者として、権勢を振るった。

だが、その後、近江の最大勢力である戦国大名の六角定頼が台頭。亮政は六角との戦いに破れてしまい、六角定頼のもとで地位を維持することとなる。

天文11(1542)年、亮政が没すると、側室の尼子氏(寿松馨庵)との間に生まれた久政が後を継いだ。亮政には数多くの子女がいる中で、内紛が起きることもなく久政が後継者に選ばれたのは、六角定頼の影響があったからだとも言われている。

内政面で手腕を振るった浅井久政の功績

亮政さえいなくなれば、浅井家など大したことはない――。

そんな雰囲気が蔓延していたのだろう。久政が家督を継ぐやいなや、亮政のかつての主君である京極高広が台頭。天文15(1546)年に海津で合戦を行い、浅井方は約360人の死者を出したと伝えられる。

その後、両者は和解し、久政は六角定頼から離れて、高広とともに対抗することになるが、六角定頼の子である義賢が実権を握ると、再び六角氏の影響下に置かれることになる。残念ながら、久政には父の亮政のような勇猛さは持ち合わせていなかったようだ。

六角氏の勢いに押されるなかで、久政は我が子の名を「賢政」としている。六角義賢の一字「賢」の字を偏諱として受けた格好となった。さらに嫡男の妻として、六角義賢の重臣である平井定武の娘を迎えている。

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