秀長が実践、荒くれ傭兵を心服「人心掌握」の極意――足軽の信頼が勝ち取った戦国版"福利厚生"の驚くべき中身とは

✎ 1 ✎ 2
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

戦国時代随一の天才軍師と後世に敬慕される彼から、秀長はさらに大きな人数の動かし方や、戦い方──正しい武士の在り方について、説明を受けました。

この頃には、兄の秀吉は隣国美濃の東半分を「調略」し、墨俣城の城代を務め、残る西美濃の攻略に躍起となっています。細かい実務を弟の秀長が担当するという役割分担も、明確になっていたことでしょう。

さらに秀長は、3番目の師匠となる黒田官兵衛から、大組織のナンバー2のあり方について教えを受けます。官兵衛は、膨張する秀吉軍におけるトップの秀吉の補佐役として、ふさわしい振る舞い方を、おりに触れて秀長に伝えました。

次に秀吉はどう動くか、何を求めてくるか、先読みすること。秀吉が命じていながら、もう忘れているようなことのチェック作業。秀吉が見えていないところへの気配り──云々。

官兵衛の助言のおかげで、秀長はやがて天下の覇者となった秀吉のかたわらで、大大名との交渉まで任されるようになります。天下人の秀吉を裏で支える補佐役として、秀長ほどの適任者はいなくなっていたのです。

温厚な性格で秀吉をサポートした

秀長は温厚な性格であり、秀吉の欠点を補う働きを終生しつづけました。秀吉に怒られるのが怖くて、秀長に相談する側近や大名も多かったようです。

歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか
『歴史の一流は「師匠」から何を学んだのか』(クロスメディア・パブリッシング)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

その実力を証明する挿話があります。

天正14年(1586)、九州地方の大半を島津家に押さえられ、窮地に陥った大友宗麟が大坂の秀吉に面会を求めました。公式会見のあと、宗麟は秀長の屋敷を訪れたのですが、そこで秀長にこういわれたそうです。

「もうご安心なされ。今後は公儀のこと(政治に関すること)は私にご相談くださればよい」

宗麟は国許の重臣に対して、「秀長の言葉でようやく安堵した」と手紙を送っています。秀長はまさに、天下のナンバー2にふさわしい人物になっていたのです。

生涯を通して、秀長は秀吉の補佐役でありつづけようと学びつづけました。その目的のために、自身の成長に応じて師匠を選んだわけです。

加来 耕三 歴史家、作家

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

かく こうぞう / Kozo Kaku

歴史家・作家。1958年大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業後、同大学文学部研究員を経て、現在は大学・企業の講師をつとめながら、独自の史観にもとづく著作活動を行っている。『歴史研究』編集委員。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。主な著書に『日本史に学ぶ一流の気くばり』『心をつかむ文章は日本史に学べ』(以上、クロスメディア・パブリッシング)、『「気」の使い方』(さくら舎)、『歴史の失敗学』(日経BP)、『紙幣の日本史』(KADOKAWA)、『刀の日本史』(講談社現代新書)などのほか、テレビ・ラジオの番組の監修・出演も多数。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事