秀長が実践、荒くれ傭兵を心服「人心掌握」の極意――足軽の信頼が勝ち取った戦国版"福利厚生"の驚くべき中身とは
戦国時代随一の天才軍師と後世に敬慕される彼から、秀長はさらに大きな人数の動かし方や、戦い方──正しい武士の在り方について、説明を受けました。
この頃には、兄の秀吉は隣国美濃の東半分を「調略」し、墨俣城の城代を務め、残る西美濃の攻略に躍起となっています。細かい実務を弟の秀長が担当するという役割分担も、明確になっていたことでしょう。
さらに秀長は、3番目の師匠となる黒田官兵衛から、大組織のナンバー2のあり方について教えを受けます。官兵衛は、膨張する秀吉軍におけるトップの秀吉の補佐役として、ふさわしい振る舞い方を、おりに触れて秀長に伝えました。
次に秀吉はどう動くか、何を求めてくるか、先読みすること。秀吉が命じていながら、もう忘れているようなことのチェック作業。秀吉が見えていないところへの気配り──云々。
官兵衛の助言のおかげで、秀長はやがて天下の覇者となった秀吉のかたわらで、大大名との交渉まで任されるようになります。天下人の秀吉を裏で支える補佐役として、秀長ほどの適任者はいなくなっていたのです。
温厚な性格で秀吉をサポートした
秀長は温厚な性格であり、秀吉の欠点を補う働きを終生しつづけました。秀吉に怒られるのが怖くて、秀長に相談する側近や大名も多かったようです。
その実力を証明する挿話があります。
天正14年(1586)、九州地方の大半を島津家に押さえられ、窮地に陥った大友宗麟が大坂の秀吉に面会を求めました。公式会見のあと、宗麟は秀長の屋敷を訪れたのですが、そこで秀長にこういわれたそうです。
「もうご安心なされ。今後は公儀のこと(政治に関すること)は私にご相談くださればよい」
宗麟は国許の重臣に対して、「秀長の言葉でようやく安堵した」と手紙を送っています。秀長はまさに、天下のナンバー2にふさわしい人物になっていたのです。
生涯を通して、秀長は秀吉の補佐役でありつづけようと学びつづけました。その目的のために、自身の成長に応じて師匠を選んだわけです。
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