秀長が5人の師から盗んだ"弱者"の生存戦略の妙――槍持たぬ農民が116万石へ、独学を捨て「補佐の極意」をつかむまで

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この加速装置だけで制動機のない兄に対して、秀長は自らがブレーキの役割を果たしつつ、良き補佐役でありつづけるために学ぶ必要があったのです。

そこで秀長は、身の回りの人々を次々と師匠にして学んでいきました。

1人目は目の前の秀吉、2人目は秀吉から聞く織田信長の言動、3人目に選んだのは、荒くれ者の集団、“川並衆”を束ねていた国人(土豪)の蜂須賀小六でした。秀長は彼から、合戦の基本や心構えなど、戦国軍人の土台を叩き込まれました。

次に師匠としたのは、美濃──現在の岐阜県の、難攻不落といわれた稲葉山城(築城したのは斎藤道三)をたった1日で、しかも16人で乗っ取った伝説をもつ天才軍師・竹中半兵衛でした。

秀長は4歳年下の半兵衛から、正規の武士(主君を持つ家臣)の心構えや、さらに高度な合戦の知識と戦術、兵を率いる将の心得などを教わりました。

5人目の師匠は、半兵衛にまさるとも劣らぬ謀略に優れた黒田官兵衛です。官兵衛は秀長よりも6歳年下ですが、戦国時代屈指の「大局観」の持ち主でした。ゆえに秀長は、官兵衛から巨大化していく豊臣家の中での、ナンバー2としての振る舞いを学んだのです。

兄・秀吉を守るために

秀長にとって、最初の就職先が織田家であったことは、非常に幸運なことでした。

他家であれば、いかに戦国時代といえども、槍を持ったこともない農民が、家臣に取り立てられることなど考えられません。仮に下男(雑用係)として奉公できたとしても、武士になることは許されなかったはずです。

たとえ新規採用者を優遇する大名であっても、戦場で働く武士と裏方の仕事をする小者には、明確な一線が引かれているのが常識でした。

しかし、織田信長の方針は違います。

織田家は完全な実力主義であり、結果さえ出せば、出自が農民であろうと、裏方出身であろうと関係ありません。望めば誰にでも、武将として出世できる道が開かれていたのです。

兄の秀吉ですら、信長以外の主君の下では出世することは難しかったでしょう。

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