秀長が5人の師から盗んだ"弱者"の生存戦略の妙――槍持たぬ農民が116万石へ、独学を捨て「補佐の極意」をつかむまで
実際、秀吉は最初、今川義元の配下=被官の松下嘉兵衛に仕えていましたが、まったく出世の可能性が見いだせず、上司や同僚の嫉妬や嫌がらせもあって、辞めて尾張へ戻ってきた、といわれています。
秀吉は、弟の秀長に「信長様に認められれば、いくらでも偉くなれるぞ」といい聞かせていたに違いありません。
弱みを強みに変える戦略
とはいえ、秀吉や秀長に戦場での華々しい槍働きは望めません。
名だたる武辺者たちに交ざって、武功をあげることは不可能です。戦闘力も体力もない兄弟は、最初から槍先での功名をあきらめていましたし、2人は人を殺す行為自体を嫌ってもいました。
そこで秀吉は、自らの「弱み」を「強み」に変えてきた己を、秀長に話しました。
戦いにおいて勝つ道は、必ずしも戦場で敵を討ち取ることだけではありません。
敵を説得して味方に引き入れる、いわゆる「調略」も立派な手柄です。血を流す必要がない分、こちらのほうが味方への貢献度は高いともいえます。
秀吉は、この「調略」の達人でした。最初は警戒していた敵も、気づけば秀吉の調子に乗せられ、「この人のいうことなら信じてもいいかな」と思わせる、不思議な魅力=放浪生活で身につけた、生きていくための方法論を持っていたのです。
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