秀長が5人の師から盗んだ"弱者"の生存戦略の妙――槍持たぬ農民が116万石へ、独学を捨て「補佐の極意」をつかむまで

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しかし、秀長が病没すると、秀吉は千利休を自死させたり、朝鮮出兵を決断したりするなど、その振る舞いが徐々におかしくなっていきました。秀長はいなくなって、初めてその偉大さがわかる人物だった、ともいえるのです。

そもそも秀長は、尾張で農民をしていました。そこへ、織田信長の配下として足軽の組頭に出世した3歳年上(年齢差は異説あり)の秀吉が、「おれの家来になってくれ、兄弟で一緒に出世しよう」と誘いに来ます。

槍を持った経験さえない自分が、合戦で身を立てる姿など考えられず、秀長は尻込みをして断りました。農民として実直に働いて、田畑を増やす夢も持っていましたから。

しかし、さらなる出世を狙う秀吉としては、身辺に絶対の信頼が置ける人物が必要だったため、懸命に秀長を口説きます。

秀長の役割はブレーキ

では、どのように説得したのでしょうか──。筆者は今日の経営学でいう「競争のない未開拓市場」(ブルーオーシャン)を秀吉は説いた、と考えてきました。

武士は本来、戦場での槍働きで出世するものです。これが既存市場(レッドオーシャン)──。

けれども体力に自信がなく、武術の心得もない秀吉は、戦場で活躍する己に期待できません。むしろ、殺されないように身を守るのが、精いっぱいであったと思われます。

秀吉の真骨頂は戦場ではなく、戦の前後に仕掛ける「調略」でした。

加えての土木建築──放浪時代に身につけた算術に加え、秀吉は蜂須賀小六(正勝)に代表される“川並衆”を、最初に味方に誘っています。彼らは河川から集落を守る土木建築の知識と実務能力を持っていました。

「自分でもやれるかもしれない」と半信半疑で兄に連れ出された秀長は、“兄の補佐役”として生きていくことになります。そのために、解決すべき課題に必死で取り組みましたが、兄である秀吉は予想をはるかに超える最速で出世していきました。

足軽組頭から“墨俣一夜城”の城代=侍大将、さらには城持ち大名、織田家の方面軍司令官、そして本能寺の変ののちは、天下人まで駆け上がっていきます。

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