「信長を2度裏切るも首を落とされなかった男」大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも大暴れ?信長も呆れた松永久秀の罪

✎ 1〜 ✎ 10 ✎ 11 ✎ 12 ✎ 13
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

戦国の世とはいえ、次々と肉親を亡くし、長慶は気が狂わんばかりだったに違いない。真相は定かではないが、十河一存や義興の死は、久秀の仕業ではないかとも噂された。

その後、長慶は弟の安宅冬康(あたぎ ふゆやす)に謀反の疑いを抱いて殺害。これについても『足利季世記』や『細川両家記』は、久秀が長慶にあらぬ噂を吹き込んだからだ、としている。そして2カ月後、当の長慶も病死する。

立て続けの不幸がすべて久秀の陰謀だと考えるのは無理があるかもしれない。だが、久秀が意図的に孤立するように仕向けて、長慶を死に追いやったと見た人は少なくなかったようだ。

長慶の死後、養子である三好義継が14歳の若さで家督を継ぐが、権力は久秀が掌握。久秀は京都・奈良・堺という経済都市を手中に収めてしまった。

人々から恐れられ、はなはだ残酷な暴君

また、長慶の死をきっかけに、弱体化していた室町幕府第13代将軍の足利義輝が権勢を復活させようとしたが、義継と、久秀の長男・松永久通、そして、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らが、京に攻め入って、義輝を殺害している。

宣教師のルイス・フロイスは、久秀について「大和国の殿で、年老い、有力かつ富裕であり、人々から恐れられ、はなはだ残酷な暴君であった」とし、その才略と狡猾さで、天下を支配した……とまで書いている。

そして、久秀こそが将軍殺害の首謀者だと示唆した。

「彼は絶対的君主になり、かつ公方様に対する服従について気遣わなくてもよいようにしようと、暴虐な方法を用いて、権勢の道における最高位に昇ろうと決意した。彼は若者である三好殿と、公方様を殺害し、阿波国にいる公方様の近親者をその地位に就かせることで相談し、その者には公方の名称だけを保たせれば、それからは両名がともに天下を統治することができようと考えた」

フロイスの記述がどこまで事実に即しているかは検討の余地があるが、久秀の専横が目に余るものだったのは確かだろう。やがて、久秀は三好三人衆とも対立を深め、抗争を繰り広げることになる。

次ページ戦火で大仏を全焼させる
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事