原発事故から15年。原発推進の風潮にあらがい、営農型太陽光発電で「エネルギー自給自足」を目指す被災者たち。その苦闘と希望への道のり

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近藤恵さん(左)と大内督さん。大内さんのコンバインがパネルの下を悠々と動き回り、小麦を刈り取っていった(写真:筆者撮影)
国際情勢がカオスに向かい、エネルギー安全保障の重要性が増している。しかし日本のエネルギー自給率は低く、わずか15.3%にすぎない(2023年度)。しかもその数字には原子力発電の電力を含んでいる。高市早苗首相は「原発推進」を掲げるが、ウランは100%輸入でエネルギー安全保障に逆行する。よく思い出してほしい。東京電力・福島第一原子力発電所の事故で、エネルギーの選択を政府任せにしてきたツケを、私たちは払うことになったことを。
あれから15年が経つ今なお、日本政府は原子力緊急事態宣言を発令中で、数万人が避難生活を続けている。にもかかわらず、教訓は忘れられようとしている。そうした中、『それでも日本に原発は必要なのか?─潰される再生可能エネルギー─』(文春新書)を上梓した筆者は、エネルギー自給自足に向けて力強く歩み始めた被災者たちの姿を追った。

東京都出身の近藤恵(けい)さんは、06年に福島県二本松市で有機農業を始めた。高校時代にクラブ活動で酪農に取り組んだことで農業に興味を持ち、筑波大学を卒業後、有機農業に取り組んだ。だが、資金や地盤など新規就農の壁は厚く、挫折を経験してきた。

転機は、福島県二本松市の農家、大内督(おさむ)さんらと知り合い、助けてもらったことだ。優良農地の斡旋、大型農機の借り受け、身元保証、住宅探し、技術指導、販売先の紹介などさまざまな援助を受け、ようやく軌道に乗り始めた。

福島市の保育所でアルバイトをしながら徐々に借りる農地を増やし、2年で専業農家となった。自給自足の生活は豊かではなかったが、妻に穫れたての野菜を好きなだけ食べさせてあげられる生活には満足していた。幼い2人の息子たちも畑で収穫作業を手伝ってくれた。

相次いだ農家の自死、彼らを追い詰めたものとは?

ところが11年3月、福島第一原発事故が、近藤さんからすべてを奪った。

事故直後、近藤さんは知人の研究者から「すごいことになっているから避難したほうがいいよ」と連絡を受けた。近藤さんは自宅の玄関や窓のすき間に目張りをして放射性物質が入り込む量が少なくなるようにし、ガソリンを携行缶に入れ、3月16日に一家4人で東京に避難した。

その後、二本松市に戻ったものの、野菜からは放射性物質が検出された。政府は、3月21日に福島、茨城、栃木、群馬各県産のホウレンソウとかき菜、福島県産原乳の出荷制限をするよう各県の知事に指示した。出荷制限品目が拡大するとともに、農家は追い詰められていった。

3月24日。二本松市の南に位置し、福島第一原発から約65キロ離れた福島県須賀川市の農家の男性(64)が自死した。男性は農薬を使っていない有機キャベツを学校給食に納品していた。

6月10日。福島県相馬市の酪農家の男性(54)が、「原発さえなければ」と堆肥小屋のベニヤ板の壁に、白いチョークで遺言を残し、自死した。報道された件だけではない。私はほかの農家の男性も自死したと聞いた。育てた作物から放射性セシウムが検出された直後だった。遺族は公表を望まなかった。報道に出ているのは一握りにすぎない。

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