原発事故から15年。原発推進の風潮にあらがい、営農型太陽光発電で「エネルギー自給自足」を目指す被災者たち。その苦闘と希望への道のり
近藤さんの畑の空間放射線量は毎時5マイクロシーベルトと、事故前の100倍に達した。
それでも近藤さんは二本松市に戻り、「とにかくやってみよう」と野菜作りを再開した。農業の継続か、子どもの体調を考えて避難すべきか、妻とよく口論になった。家族は母子避難を決め、一学期が終わると妻は子どもたちと宮城県の親戚の家に避難した。
近藤さんは二本松市にひとり残り、農業を続けた。
しかし、放射能は農家を直撃した。近藤さんが11年に収穫した玄米からは、12ベクレル/㎏の放射性セシウムが検出された。同じく大豆と小麦からもセシウムは検出され、その値はそれぞれ188ベクレル/㎏、17ベクレル/㎏というものだった。
もともと放射性セシウムは自然界には存在しない。しかし、二本松市の別の農家が収穫したコメからは、100~500ベクレル/㎏もの高濃度の放射性セシウムが検出された。大内さんが作ったホウレンソウ、小松菜、キャベツなどの野菜も汚染されていた。「1000ベクレルを超えたものも出て、お客さんは6割減」(大内さん)という状況だった。
農地を返還して廃業、家族も苦難に
近藤さんは11年12月、ついに農業をあきらめ、「もう続けられません。すみません」と大内さんに言い、借りた農地を手放し、廃業した。
近藤さんの農場があった二本松市岳下村地区は12年4月、あらかじめ出荷を止めておき、検査結果を見て出荷を許可する「事前出荷制限区域」に指定された。
「もう、絶望しかありませんでした」(近藤さん)
廃業後、近藤さんは二本松市で農協の臨時職員となった。長男は県の甲状腺検査で囊胞が発見され、経過観察となった。農協で共に働いていた妻は体調を崩して病気になり、働けなくなった。収入が激減、爪に火をともす生活になった。





















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