中高の探究学習で「大学の先生たち」が疲れている…なぜ?誰が悪い?"生徒、中高教員、大学の教員・研究者"の生の声に見る課題の本質
しかし、先の農業高校の事例や海外の入学プロセスでは研究が必須なケースがあることも考えると、個別のコンタクトに対する門戸をすべて閉じてしまうことも決していいことではないだろう。
県立高等学校のC教諭は、そもそも「探究」と「研究」は違うものであり、中等教育の教員と大学を含めた高等教育の教員は役割が違うと主張する。高校までに育てることは、何かを面白がる好奇心であり、研究の土台をつくること。
そうした「探究」の土台がないとよい研究にもつながらないのではないかと指摘する。かつ、高校探究のほとんどのケースでは、研究者へのヒアリングの必要もなければ意味もないとも考えていた。よい形での棲み分けをあらためて考える必要がありそうだ。
探究には必ずしも「研究者」は必要ではない?
筆者も探究と研究は分けて考えるべきだと思っている。新しい知を生み出す「研究」とは違い、「探究」はアメリカの哲学者ジョン・デューイも言及するようにもっと広い概念である。
もやもやとした言葉にならない不確定な状況から、「こうかもしれない」というその人なりの確定的な手応えを得ることができればそれで「探究」足りえるし、その手応えをまた問い直す半永久的なスパイラル型の学びそのものであり、人生および世界に向き合う基本的態度だと言ってもよい。
そう考えると、その生徒がそれぞれの問いや仮説を持って、自分なりに模索し深めていく過程そのものは大切ではあるが、そこに必ずしも「研究者」が必要な訳ではない。
そこに「研究者」へのアクセスを要求したり、大学受験の売りとして考えるのであれば、明らかに目的と手段の取り違えであり、大学教員が消費されたと感じ、怒りを覚えるのも無理はないことだろう。
一方で学習指導要領や大学入試改革の狭間で、何らかの成果を出さなければならないと焦り、翻弄される中高教員の姿も見えてくる。
後編に続く
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