いずれにしても、秀吉と秀長は3歳しか変わらず、秀吉が8歳のときに最初の夫が亡くなったことが事実ならば、そのときすでに5歳の秀長がいたはず。
また、秀長と妹の朝日も3歳違いであることから、長女のとも、長男の秀吉、次男の秀長、次女の朝日はすべて、同父の兄弟姉妹と考えるのが妥当そうだ。
「我関せず」の兄弟関係が道を開く
戦国時代においては、幼少期の兄弟関係がのちに重要になってくる。
織田信長の場合は、父・信秀の葬儀の際に、弟の信行がきちんとしているなかで、信長は袴もつけず茶筅髷姿で現われたばかりか、焼香の際に抹香をつかんで仏前に投げつけた……そんな逸話が『信長公記』に記されている。対照的な2人だったのだろう。信行が度重なる謀反を起こしたため、信長に殺害されることになる。
また、武田信玄の場合は、父の信虎が4歳年少の弟・信繁ばかりをかわいがり、次期当主に据えようとさえ考えたという。だが、信繁の気持ちは、あくまでも兄の信玄を支えることにあった。重臣に担がれた信玄が、父の信虎を駿河に追放するクーデターを行ったときにも、信繁は父ではなく、兄のほうに同調。その後もサポートし続けた。
いずれも幼少期の兄弟関係がその後の人生に影響を与えたことがわかるが、秀吉と秀長については、貧しい出自だったこともあり、記録がない。2人が幼少期をどんなふうに過ごしたかはわかっていないが、おそらく「我関せず」といったドライな関係だったのではないだろうか。
なにしろ、兄の秀吉はあまり実家に寄りつかず、立身出世を目指して放浪する日々を送っていた。一方の弟の秀長は、一家を支えるべく農作業に励んだことだろう。
秀吉と秀長。2人の人生が交錯して、ともに乱世を躍動することになるなど、このときはまだ、想像すらしなかったに違いない。
【参考文献】
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
竹内理三編『史料大成多聞院日記〈全5巻〉』(臨川書店)
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
柴裕之編『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究14』(戎光祥出版)
新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社)
真山知幸著『企業として見た戦国大名』(彩図社)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)
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