「なか」はまず木下弥右衛門という男と結婚したが、弥右衛門が天文12(1543)年に他界したため、織田信秀に仕えた同朋衆・筑阿弥と再婚した……とされてきた。
だが、後述するように秀吉や秀長ら子のことを考えると、なかの2回の結婚について、見直しが必要になってくるかもしれない。
秀吉と秀長をめぐる2人の父親
なかが結婚したとされる2人の夫のうち、秀吉と秀長はそれぞれどちらを父に持つのか。
従来は最初の夫・木下弥右衛門との間に生まれたのが秀吉で、弟の秀長は2番目の夫・筑阿弥の子とされてきた。というのも、17世紀後半に成立した土屋知貞の『太閤素生記』には、秀吉の出自について、次のように書かれている。
「父は木下弥右衛門と云い、中々村の人、信長公の親父信秀〈織田備後守〉鉄炮足軽也」
秀吉の父の名前は「木下弥右衛門」と言い、中中村に住む人で、信長の父・織田信秀に仕えた鉄砲足軽だったという。しかし、ポルトガル人によって鉄砲が伝来したのは天文12(1543)年のことで、その年に弥右衛門が死亡している。鉄砲足軽ではなく、ただの足軽だったのかもしれない。
さらに『太閤素生記』では「秀吉が8歳のときに弥右衛門が死去した」としながら、母のその後も含めてこう書いている。
「木下弥右衛門所へ嫁し、秀吉と瑞竜院とを持ち、木下弥右衛門死去ののち、後家と成りて二人の子をはぐくみ中々村に居る」
木下弥右衛門のところに嫁に入ると、秀吉と瑞竜院とを生み、弥右衛門が死去すると、後妻となり、2人の子どもを育んだという。つまり、長男の秀吉と長女のともは木下弥右衛門を父に持ち、次男の秀長と次女の朝日は母の再婚相手である筑阿弥の子ということになる。
その一方で、小瀬甫庵の『太閤記』では、秀吉は2番目の夫・筑阿弥の子とし、筑阿弥は清須の織田大和守家に仕えたと記述している。
さらに『祖父物語』という文献でも、秀吉を筑阿弥の子としている。『祖父物語』とは、尾張国の柿屋喜左衛門が祖父から聞いたことを書き記したものだ。柿屋喜左衛門の祖父がおそらく秀吉と同世代で、かつ、秀吉の正妻・寧々の出生地である「朝日村」で居住したことなどからも、見逃せない記述である。
木下弥右衛門と筑阿弥は同一人物なのではないか――。近年はそんな説も有力視されている。





















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