奈良国立博物館に所蔵されている「羽柴秀長都状」で確認することができるが、そこには「秀長五十一」と記されている。当時は数え年だったため、 そこから導き出すならば 、天文9(1540)年が生年となり、『系図纂要』の記載と一致する。
都状が秀長の自筆であることを踏まえると、秀長は天文9(1540)年生まれと考えるのが妥当だろう。秀吉の生まれについては天文6(1537)年説が有力となっているため、秀長は秀吉にとって3歳年下の弟ということになる。
秀吉や秀長ら4人の子を生んだ母
秀吉と秀長の2人は異母兄弟ではなく、同じ母を持つ兄弟である。
母の正確な名前は定かでなく、法名から「天瑞寺殿」とも呼ばれるが、一般的には『絵本太閤記』に出てくる俗名の「仲(なか)」がよく知られている。
秀長と兄の秀吉、姉の とも (日秀尼 )、妹の朝日という4人の子を育て上げ、豊臣一族の強固な結束を支えた。息子の秀吉が関白に任官したことで「大政所」と称されることになる。
そんな母・なかは、永正13(1516)年、尾張国愛知郡御器所村(現・愛知県名古屋市昭和区)で生まれたと伝えられる。父は美濃国の鍛冶職人・関兼貞という説があるが、身分が低く史料に乏しいため、家族関係の詳細は不明な部分が多い。
注目すべきはなかの親族ネットワークである。妹や従妹に加藤清正の母・聖林院、小出秀政の正室・栄松院、青木一矩の母・大恩院、福島正則の母・松雲院などがおり、後に秀吉が天下人となった際、これらの血縁関係が豊臣政権の重要な人材供給源となった。





















無料会員登録はこちら
ログインはこちら