「埼玉=ダサいたま」のイメージが1980年代に”全国普及”したのはなぜ?当時の大宮・浦和・川越の街並みをアナログ写真と共に振り返る

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1980年代後半の川越の写真を見ても蔵造りの街並みは残っているが、その後電線の地中化や、歴史的建築の保存活用なども進み、1999年には、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定。それ以後も、蔵造りのレプリカ建築などが造られ、ますます歴史的要素がショーアップされるなどで、観光都市としてますますの盛り上がりを見せている。

川越市
川越市の商店街(写真:1989月02月13日、高橋孫一郎撮影)
川越市
川越市町並(蔵の街)(写真:1988年05月、吉野純治撮影)

イジられにくい希有な土地柄

川越では、東武東上線とJR川越線の川越駅、そして西武新宿線の本川越駅と3路線もの鉄道駅が都心とをつないでいる。1989年の写真を見てもJR、東武の川越駅前では再開発が進み、商店街はにぎわっている。

商業都市としての歴史がある一方、近代には工業都市としても、観光地としても発展。

埼玉県内の政令指定都市はさいたま市のみだが、川越市は、越谷市、川口市と並んで中核市となっている。歴史があり、観光地でもあることから、他県人から「翔んで埼玉」的なツッコミやイジりは入れられにくい、県内では稀有な土地柄だ。

埼玉と言っても、東京都と接している県東南部と、川越、秩父、そのほかにも熊谷、行田、本庄、加須などでは、地域性も個性も大きく異なる。

県東南部内だけでも、浦和と大宮、川口や、JR各線、西武線、東武線と沿線別に対立の構図が発生しがちで、無用な衝突を避けたい埼玉県民が自虐に走るというテクニックを駆使する例もよく見られる。

他県民から見て、誠に興味深い地域と県民性に満ちているのだが、そんなことも映画「翔んで埼玉」の大ヒットにつながったのだろう。

【もっと読む】60年前の「アジアっぽい東京」が今の姿になるまで 当時の写真から読み解く「街が変化した」必然 では、路面電車だらけで、今見るとアジアの異国のようだった1960年代の東京の様子を、文筆家の鈴木伸子さんが詳細に解説している。
連載
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鈴木 伸子 文筆家

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すずき のぶこ / Nobuko Suzuki

1964年生まれ。東京女子大学卒業後、都市出版『東京人』編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『中央線をゆく、大人の町歩き: 鉄道、地形、歴史、食』『地下鉄で「昭和」の街をゆく 大人の東京散歩』(ともに河出書房新社)『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』(リトル・モア)などがある。

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