「貯蓄から投資へ」の掛け声が「株忌避」に終わった80年前の顛末...戦時介入で時価総額の32%を抱えた政府、歪んだ市場が終戦前にうごめいた
1941年3月には、日本証券投資が買い入れた保有株式を肩代わりする日本協同証券が設立された。法令により政策目的のために設立された日本興業銀行が無制限融資をする方針であったことから、政府による関与がより強化され、民間主導の機関から格上げされた準政府機関と言ってよいだろう。
また、1941年7月には、政府が株価の下限を決定できる株式価格統制令が出され、金融市場の混乱に備えている。
しかし、1941年12月の真珠湾攻撃により日米戦の幕が開かれると、想定とは違い株式市場が大暴騰を演じる。そこで、逆に世の中が浮足立つのを避けたい政府は、日本協同証券に株式売り介入を指示した。株価介入と言えば「買い介入」と考えがちだが、売り介入もあったというのは驚きだ。
とは言うものの、それ以前の日本証券投資も主力株だけを対象にして「暴落したときに買って、高く売る」介入をしていたと指揮をとった藍澤彌八氏(現在のアイザワ証券創業者)は後に語っており(資料1)、株価維持機関は市場のボラティリティ(変動率)を抑制するのが主眼だったと言えよう。
この時期における介入は、株価を支えるのではなく、むしろ上昇する株価を抑えることに力を割いていた点は重要である。つまり、「行き過ぎた株価上昇」と「行き過ぎた株価下落」という両方向での変動を抑え込むことを意図していたのである。
しかし、この株価上昇は続かず、介入も買い支えに徹するように転じるのであった。
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