「塞翁が馬」だからこそ人生は楽しい…山中伸弥さんが近大の卒業式で語った"二転三転"の研究者人生

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するとおじいさんの息子さんが、やって来た名馬に乗っていて落っこちてしまい、足を複雑骨折して歩けなくなってしまいました。また村人がやって来て、「おじいさん、えらい災難ですね」と言いました。しかし、おじいさんは「いやいや、これは何かいいことの前ぶれかもしれない」と答えました。

しばらくすると戦争が起こりました。村の若者は、ほとんど全員が死んでしまいました。でも、おじいさんのひとり息子は、足の怪我で歩けなかったので、戦争に行かずに生き残りました。

そういう話らしいです。

村人のように一喜一憂するのではなくて、おじいさんのようにどっしり構えよう、そういう意味(のことわざ)だと思います。

「ジャマナカ」と呼ばれた臨床医時代

私が大学を卒業したのは今から29年前(※1987年)です。約30年間、社会人として過ごしてきましたが、この30年、私にもたくさんの『塞翁が馬』がありました。

私は医学部を卒業して医者になったわけですが、一番喜んでくれたのは父親だったと思います。なぜなら、父親が私を医学の道に押してくれたからです。

私の父は、この東大阪市(※卒業式の会場・近畿大学の東大阪キャンパスの所在地も東大阪市)で小さな町工場を営んでいました。町工場ですから、父自身も一生懸命、毎日作業をしていました。

私がちょうど中学生ぐらいのとき、父はその仕事での怪我で輸血をすることになり、その輸血が原因で肝炎、肝臓の病気になってしまいました。どんどん病気がひどくなっていって、そのことがあって私の父は、息子である私に、経営者ではなく、医学の道を勧めてくれたのかなと思っています。

そして、いよいよ医学部を卒業して就職しました。当時は、自分の行き先の病院を自分では決められず、大学の教授が決めるような仕組みでした。私が行くようにと言われた病院は、大阪にある本当に立派な、新しく建て直したばかりの素晴らしい病院でした。ですから、私は「これはラッキーだ」と思いました。

「こんないい病院で働けるんだ!」と、すごく喜んで働き出したのですが、これが『塞翁が馬』の始まりでした。

喜んで働き出したのですが、そこで待っていたのは鬼より怖いような上司の先生でした。僕はその後2年間、怒られなかった、怒鳴られなかった日は、1日もありません。毎日もう、本当にもう、すごい目に遭いました。

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