「好んで西武池袋線に住む人はいない」のは本当か 池袋の文化度は「東急系の渋谷」に負けていない
ということで、そうしたいわれなき汚名をそそぐためこの本を書く、というとすっきりするのだが、「西武池袋線」をめぐる事態はそれほど単純ではない。
最近はそういう言い方をしないが、西武池袋線を「郊外電車」と呼んで間違いはないだろう。この「郊外」が問題なのだ。「郊外電車」という言葉のイメージは、どこかのんびりとした田園風景が思い浮かぶが、21世紀の現在、「郊外」にはそんな牧歌的な要素はない。日本中、どの地域の郊外に行っても、同じような風景、ファストフードのように均質で、画一的な街が広がっている。それが「郊外」なのである。
「郊外」は西武と東急の差異を呑みこんでいる
たしかに合理的で、「安心・安全」だが、生活世界のすみずみまでシステム化されて息苦しく、生きづらい。どこか倫理性を欠き、それまでの「常識」は通用せず、とんでもなく禍々(まがまが)しいことが起こってもおかしくないような空間。たとえていうと、歯止めが利かなくなったAIが悪さをするイメージといったらいいだろうか。
こうした事態を、社会学者たちの説にならって「郊外化」と呼ぶなら、日本社会全体が「郊外化」しつつあるといえるだろう。「郊外」は西武池袋線と東急田園都市線との差異を呑みこみ、その均質性を広げているということだ。