【日産自動車の城下町に激震が走った工場閉鎖報道】主要車種の生産を担い、開発の拠点でもある追浜工場の今後は?その歴史から考察する

追浜工場は、1961年に富士自動車から日産は入手し、操業をはじめた。そして、中央研究所(現在の総合研究所)と試験場を設け、初代「ブルーバード」の生産がはじまる。
1972年に「バイオレット」、1977年に「オースター」と「スタンザ」などの生産をはじめ、翌1978年には生産累計500万台を達成した。
1990年に「プリメーラ」、1994年に「セフィーロ」と、時代を先取りする新たな価値を提供する車種の生産も行う。その間、1992年には、生産累計1000万台に達した。
2002年には「マーチ」「フェアレディZ」、2003年には「キューブ」の生産をはじめ、2010年には電気自動車(EV)初代「リーフ」の生産がはじまる。そして2016年には、「ノート」の生産が九州工場から移管され、これに、シリーズハイブリッド方式のe-POWERが採用されて、今日の日産の屋台骨となっていく。

翌2017年には、累計生産台数が1億5000万台となり、その記録を達成した車種は、2代目「リーフ」だった。
主要な生産車種を振り返ると、時代を切り拓こうとする独創的な車種が追浜工場から出荷されてきた様子を知ることができ、さらに現在のEVをはじめとする電動車両の知見が豊富に詰まった工場であることが見えてくる。
追浜工場を再評価する機会

今の日産にとって、追浜工場といえどもなんらかの改善や修正は必要なのかもしれない。

しかし、2027年という、あと2年のうちに、追浜工場に代わる役目を担う工場をほかに整備するのは容易ではないのではないか。そう考えると、現在17ある世界の生産工場を7つ減らす計画のなかに、追浜工場が最右翼であるとは考えにくい。もちろん、検討自体はすべての工場に対し均等に行われるとしても、そこで改めて、追浜工場の役目が評価されることになるのではないだろうか。
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