喜多川歌麿が描く「美人画」が評判を呼んだ理由 評判だった美女を次々描く歌麿 どんな作品だったのか
彼の作品の中には「鍵屋にお仙を訪ねたお藤」を描いたものもあります。2人はスラリとした長身の女性に描かれています。2人とも、細い目、細い眉毛で、おちょぼ口であり、似たような顔付きです。
それはさておき、明和年間に流行した市井の美女の絵ですが、続く安永(1772〜1781年)、天明(1781〜1789年)年間には、類似例というものはなかったようです。一過性のものだったのでしょう。
それを寛政年間に復活させたのが、蔦屋重三郎と喜多川歌麿でした。歌麿は、当時、評判となった美女たちを次々に描いたのです。
今風に言うジャンケンを描いた作品も
先にも述べた、「高島おひさ」(大判錦絵。版元は蔦屋)もその1つです。歌麿は団扇を顎にあてがい、顔を上半身とは異なる方向に向けている「おひさ」を描きました。
おひさだけではありません。歌麿は、茶屋に勤める若い女性「難波屋おきた」も描いています。おきたは、茶を運ぶポーズをつけて描かれています。「おひさ」も「おきた」も、目が細く、おちょぼ口というのは同じですが、顔つきは明らかに異なり「個性」があります(先述した鈴木春信のお仙とお藤は、顔つきも同じような感じであり、筆者が見たところでは没個性です)。
「おきた」「おひさ」そして芸者の「富本豊雛」(吉原の玉村屋が抱えていた)を描いた「当時三美人」という作品も、歌麿にはあります。この3人は「寛政の三美人」と称されています。
歌麿の寛政4年か5年頃の作品と言われるものには「狐拳三美人」もあります。そこには「高島おひさ」「難波屋おきた」「富士屋おたよ」の3人が描かれています。彼女たちの頭上には「富士屋」「難波」「高島」と書かれた提灯が描かれており、誰がどこにいるかがわかります。
題名の「狐拳」というのは、ジャンケンに似た指や腕を使って勝敗を争う遊技のこと。江戸時代、酒席の座興として始まったものと言われています。
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