親子同時襲名「尾上菊五郎」が11歳の息子「菊之助」へ伝えたい言葉。歌舞伎役者として生きる《宿命》、親子で乗り越える葛藤の日々
学校生活の楽しさと襲名へのプレッシャーが波のように寄せては返し、時折嵐のような激しい葛藤の波が爆発することがあります。
実は手書きの「襲名カレンダー」を作ったんです。〝あと何日〞とわかるように。でも、一度彼が爆発した時に、ビリーッと破かれてしまって。2人で大喧嘩。

妻は芝居のことについてはいっさい入ってこないので、「ドラマみたい」と後でさらっと言っていましたが、本当は一番心配してくれていると思います。歌舞伎役者の娘として妻として母として、全てわかって見守ってくれていることが心強いです。
「襲名カレンダー」は翌日作り直し、今度は破かれないように、夜中にラミネート加工をしに行きました(笑)。自分が菊之助を襲名した時の挫折を思うと、ついついそうならないようにと稽古が厳しくなってしまうんです。
爆発するのも当然で、それを受け止めながら2人で前に進んでいきたいと思っています。
私の子ども時代
襲名披露の最初は『京鹿子娘道成寺』と『弁天娘女男白浪』。弁天小僧は物心ついた時から「いつかやりたい」と言っていたので、嬉しさも大きいのではないでしょうか。「稲瀬川勢揃い」の台詞を小さい頃からそらんじていましたから。
私が「稲瀬川」の弁天小僧を初めて勤めたのは5歳、「天地会」でした(通常の役柄と替えて上演する会。この時の捕手(とりて)は七代目菊五郎。1983年2月歌舞伎座)。
南郷が今の坂東彦三郎さん、赤星が市川團十郎さん、忠信が坂東亀蔵さん、駄右衛門が尾上松緑さん。
この時、私だけ声が低くてお客さまに笑われたんです。父の弁天小僧のビデオばかり見ていましたから、台詞廻しも父を真似ていて。私自身は大真面目にやっているのに……子ども心にすごくショックで。

2回目が11歳(1989年5月歌舞伎座)。前回のトラウマがあるので、わざと子どもっぽく高い調子で台詞を言ったんです。そうしたら、父に「おまえ、その台詞廻しは何だ!」と叱られて。
今の息子と同い年の時ですね。そう思うと、新菊之助のほうがしっかりしていますね。私は小さい頃、本当に悪ガキで、楽屋や舞台裏を走り回るのは当たり前、同級生の團十郎さんとは楽屋で水鉄砲で遊ぶという暴挙にも出ていましたから。
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