盗難から12年半、韓国から返還が決まった後も続くドタバタ劇 あの「対馬の仏像」がたどった"思いもよらない運命"
文化財の窃盗事件では、文化財の確保が最優先される。犯人逮捕が先になったり、売買された後は、証拠隠滅を図って文化財が焼却・破壊されたり、行方がわからなくなる確率が高くなるためだ。
発見当時、筆者が話を聞いた捜査関係者は「この事件は贓物(ぞうぶつ)の文化財も無事確保でき、犯人も逮捕できたラッキーなケースだ」と言って胸をなで下ろしていた。あとは、日韓双方が批准しているユネスコ条約(文化財不法輸出入等禁止条約)にのっとり、日本に返還されるのを待つだけだった。
ところが、「観世音菩薩坐像」は所有権をめぐり、その後足かけ13年も韓国に留め置かれることになる。
なぜ"幽閉"は長期間に及んだのか
長い“幽閉”の始まりは、浮石寺が裁判所に申請した「移転禁止の仮処分」だった。2013年2月、「観世音菩薩坐像」は倭寇により略奪された、わが寺の仏像であるとして所有権を主張。浮石寺の仮処分申請は受け入れられ、「観世音菩薩坐像」は文化遺産研究院に保管されることになった。
仮処分の効力は、裁判(本案訴訟)に移行しなければ3年で消失する。そのため、3年後の2016年3月には、田中前住職が韓国政府に嘆願書を送り、早期の返還を求めた。
当時、韓国政府関係者は「仏像を返還する方針で、タイミングを見ながら手続きを進めている」と話していた。だが、浮石寺はこの翌月の2016年4月、保管していた仏像の引き渡しを求めて韓国政府を提訴してしまう。
この裁判の一審では、「浮石寺の所有と十分に推定できる」とされ、浮石寺側が勝訴。しかし、2023年2月1日の控訴審判決では、韓国政府が勝訴した。
控訴審の結審前には観音寺の田中節竜現住職が訪韓し、補助参考人として出廷した。法廷では、1950年代に観音寺を建てた人物が朝鮮に渡って譲り受けたと代々伝えられてきており、檀家の拠りどころとして長い間大切に守られてきたこと、そして日韓双方の民法において取得時効が成立していることを訴えた。
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