大阪・関西万博に台湾が「一民間企業」として参加せざるをえない理由、中国大陸との関係に左右されてきた歴史
台湾の郭智輝・経済部長(経済産業相)は3月20日、立法院(議会)で「日本側は(日台の)友好関係に基づき、BIEの会員でない台湾に参加を要請した。これは日本側の大きな誠意だ。台湾は主催者の条件や規定に従わねばならない」との見方を示し、取り繕おうとした。
しかし、当然、台湾として参加できるものと考えていた台湾の多くの人たちは、中国大陸からの反発を懸念したのかどうかはわからないが、台湾の体面をつぶすような日本側の態度に失望し、民主進歩党(民進党)の対日外交の失策と考えた。
台湾の『中国時報』は3月17日付で、万博の「台湾館」出展で功を焦った台湾側の拙速さが日本側を困らせ、結果として台日友好の「仮面」を壊してしまうことになった、と指摘した。
「台湾」の名称が使えた万博があった
実際のところ、台湾の外交部(外務省に相当)の関係者によると、台湾を国際社会にアピールする絶好の場として万博を活用しようと意気込んでいたという。経済部のリリースは、台湾側の本音が出たものと考えられる。
万博では「台湾」の名前は使えなかった。しかし、いつも使えなかったというわけではない。万博における「台湾館」の名称は、時々の国際社会における台湾の扱われ方を象徴するものでもある。
1970年に日本で開催された大阪万博(EXPO70)では、台湾は「中華民国館」の正式国名で参加した。日本は日中国交正常化以来、中華民国を承認していないが、当時は日本と台湾の中華民国が断交する前だった。
パビリオンの設計は、ルーヴル美術館のガラスピラミッドを設計した中国系アメリカ人の著名建築家・貝聿銘氏が担当し、7月10日のナショナル・デーには厳家淦副総統が出席するという力の入れようだった。
翌1971年夏以降、アメリカのキッシンジャー大統領補佐官の訪中でアメリカと中国の急接近が露見し、国連では中国代表権の交代が発生して台湾の中華民国は国連を去った。1972年になるとアメリカのニクソン大統領が訪中、同年秋には日中国交正常化にともない日本と中華民国の外交関係が消滅した。
また国連脱退によって中華民国は多くの国際組織から排除されるなど、国際社会における台湾の孤立が急速に進んだ。
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