一つのムーブメントが巻き起これば、さまざまなバリエーションが生まれるのは、いつの時代も同じだ。豪快な「義太夫節」は確かに心をわしづかみにさせるものがあるが、じんわりと心に染みる、そんな浄瑠璃があってもいいんじゃないか……。
そう考えたのだろう。義太夫とは異なり、静かに情緒的に語りかけたのが、寛延元(1748)年に初代・富本豊前掾(ぶぜんのじょう)が創始した「富本節」である。
豊前掾は宮古路豊後掾の門弟で(諸説あり)、重厚な時代物を得意とした「常磐津節」から独立。「富本豊志太夫」と名乗り、富本節を立ち上げた。
中村座で宮古路豊後掾が劇場初出演を果たすのは、宝暦2(1752)年の春と、常磐津節から離れて4年後のことだ。相方となる三味線奏者を探すのに、時間がかかったのではないかとも言われている。
「富本豊前掾が富本を起こすに当たって一番苦慮したのは、その三味線方であった。常盤津節の佐々木、江戸長唄の杵屋、河東節の山彦などそれぞれの地位を確保していた当時において、新しい三味線の相方を獲得することは至難の業であった」(『江戸豊後浄瑠璃史』岩沙慎一著、くろしお出版)
「富本節」ブームを見逃さなかった蔦重
そうして富本節の立ち上げに奔走した初代の富本豊前掾は、明和元(1764)年に49歳で他界。そのあとを継いだのが、当時まだ10歳だった富本午之助である。
門人たちにサポートされながら、天性の美声を持つ午之助は、その才を鍛錬によって伸ばしていく。安永6(1777)年1月、23歳のときに2代目豊前太夫を襲名している。
2代目豊前太夫の活躍によって富本節が大流行となると、その機を逃さずにいち早く動いた出版人がいた。蔦屋重三郎である。
「これだけ富本節が流行しているならば、きっとみんなも真似したくなるはずだ」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら