そんななか、庶民の楽しみとして広がったのが、節をつけてストーリーのある物語を語る「浄瑠璃」である。
最初に語られた浄瑠璃は、どんなものだったのか。寛文5(1665)年に刊行された仮名草子『よだれかけ』には次のように記述されている。
「我浄瑠璃のもとをたづぬるに、奥州やはぎの長者が浄瑠璃御前といひし牛若君のおもひものの事を作り、十二段にわけて語りそめしより起る」
この記述に端を発して、牛若丸と浄瑠璃姫との恋物語を脚色した『浄瑠璃十二段草紙』(『浄瑠璃御前物語』『浄瑠璃姫物語』とも呼ばれる)を浄瑠璃の起源とする文献が、数多く残されている。
その一方で、それよりも以前に『やすだ物語』が12段に分けられて「じようるり」として語られたという説もある。
また、浄瑠璃は三味線を伴奏として、物語を語るように演奏する音楽として広まっていくが、伴奏楽器を伴わない時期もあった。江戸時代中期の享保17(1732)年に刊行された江戸の地誌『江戸砂子(えどすなご)』では、発生当初の浄瑠璃について、次のように記されている。
「その頃は三絃(さんげん)に合することもなく、右の爪さきにて扇の骨をかきならし、拍子をとったりとぞ」
扇で拍子をとりながら伴奏を行っていたところに、室町時代から琵琶が伴奏として用いられるようになり、2つが並行して行われていた頃もあったようだ。
そして、江戸時代に入る頃には、華やかな音を奏でる三味線とセットとなり、浄瑠璃は大きく発展していくことになる。
大坂で義太夫節が創始される
もともと語り物だったところから、楽器の伴奏を伴う歌謡物へと転換した浄瑠璃。さらに江戸時代初期には、人形を操る芝居を組み合わせて「人形浄瑠璃」が誕生する。
17世紀末には、大坂で竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が、人形浄瑠璃の「義太夫節」を創始。大坂道頓堀で人形浄瑠璃の劇場「竹本座」を立ち上げた。
「義太夫節」は、語り手としての太夫と三味線弾きの2人がセットとなって奏でられた。ドラマティックで豪快な語りと音楽で、観客を魅了したようだ。特に『曽根崎心中』など近松門左衛門の作品が人気を博して、人形浄瑠璃の黄金時代を築き上げている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら