「残りの人生で子供たちと会える日はあと何日?」62歳で大分から”東京移住”を夫婦が決断するまで。移住あるある「墓問題」も聞いた

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絹子さんの実母は大井家の一戸建ての一角でクリーニング店を運営するバイタリティあふれる女性だった。しかし、2006年(夫妻は51歳)頃から認知症が疑われるような症状が見え始めていた。

あゆみさんが当時を振り返る。「祖母が認知症ではないかと疑ったのは、弟の大学の卒業式に出るために家族皆で東京に来たときでした。このとき祖母は自分がどこにいるか分からず、お土産をむやみやたらに買ったりしていました。祖母はしっかりした人だったので、驚きました」

このとき、あゆみさんは親と離れて暮らすことの怖さを初めて実感したという。

「両親もいずれ認知症になるかもしれない。でも、離れているとそうした変化にも気づきにくい。元気なうちに近くに来てもらえれば、変化にも気づけるかもしれない、と思うようになりました」

2025年3月初旬、インタビューに応じる大井さん一家(写真:今井康一撮影)

3年にわたる在宅介護で疲弊

絹子さんは家で実母の介護を始めたが、この介護が大井家にとって大変な経験となった。春美さんが当時の絹子さんの心境をこう代弁する。

「妻はおばあちゃんの介護を続ける中で気が滅入り、いらつくようになっていました。妻にとっては自分の母親ですので、どうしても声が大きくなったり、怒鳴ったりしてしまう。義母としても強く言われると疲れてしまうし、言っている側も後悔する。心身が疲れた状態にありました」

当の絹子さんも介護経験から、家族同士が近くに住む方が何かと都合がいいと考え始めた。「もし母が遠くに住んでいたら、介護はもっと大変だったと思います。子供たちはほとんど大分には帰ってこない。だったら私たちが子供たちに近い東京に行った方がよいのではないかと考えました。子供たちと会うのは、お正月とお盆くらい。年数日程度だと考えると、残りの人生で子供たちと会える日数は本当に少ない。それでは寂しいなという思いがありました」

春美さんと絹子さんは3年間家で介護した後、実母の認知症が重くなり施設へ入所してもらうことに。そして2年間の施設生活を経て2014年に亡くなった。

こうした経験から、大井さん一家では「面倒を見てもらう(見る)ようになってからでは遅い」という意識が芽生えた。

そして、実母の介護を終えたことで、話が一気に進んでいく。

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