前方後円墳が示す「卑弥呼と並び立つ男王」の存在 背景には吉備と北九州の「主導権争い」があった

墳形からわかる「2系列の王統」
卑弥呼の後継として共立された台与(とよ)は、泰始2年(266)、西晋に朝貢した。その後について少しではあるが、『梁書』倭伝や『北史』東夷伝に記されている。
これらによると卑弥呼の死後に男王が立てられたが、国中が服属せずに互いに殺し合うことになった。そこで、卑弥呼の宗女・台与が再び立てられた。ここまでは『魏志』倭人伝と共通する。
『梁書』倭伝や『北史』東夷伝ではさらにその後、再び男王が立てられたとあり、さらに並んで中国から授爵されたとある(「竝受中国爵命」)。この竝受(並んで受ける)は、その後の男王も台与と同様に授爵されたと読むのが一般的だが、台与と男王が同時に授爵されたとも読み取れる。
だとすれば、女王と男王が並立して統治していたことになる。
大阪公立大学大学院文学研究科教授の岸本直文氏は、前方後円墳のフォーマットが完成した箸墓古墳以降の6基の前方後円墳の墳形を分析した。墓制の共有は同一文化圏に属していることを示し、同一の墳形を共有・継承することは、人々に目に見える形で首長の権威と正統性を示すことになる。
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