前方後円墳が示す「卑弥呼と並び立つ男王」の存在 背景には吉備と北九州の「主導権争い」があった
では、執政王である弟男をどう見るか。これは瀬戸内海中部・畿内の勢力、特に吉備が後押しする執政王だったのではないだろうか。
吉備は「第一次倭国乱」によって軍事力を増強し、楯築墳丘墓に見られるような大規模な土木技術を持っている。吉備・畿内は、大規模な公共事業を行う行政力と狗奴国に対抗する軍事力を要していた。画文帯神獣鏡の分布からプレ倭王権をリードしたのは、吉備・畿内の勢力だったことがわかる。
ここから当初は、男性執政王がプレ倭王権を主導したと考えられる。こうして瀬戸内海中部の墳墓を起源とする前方後円形の首長墓が、プレ倭王権に参画した地方で造営された。
「外交成果」による北部九州の巻き返し
これに対して、北部九州は外交力によって、神聖王・卑弥呼のプレ倭王権内での地位向上を図った。そして、公孫氏の妨害によって停滞していた中国王朝との外交は、238年に公孫氏が魏に滅ぼされたことで再開されることになった。
プレ倭王権の外交を一元管理していたのが北部九州である。卑弥呼を倭国の女王、男性執政王を「男弟」とする中国王朝の見方は、北部九州が外交を行ったため、あえて男性執政王が低い立場としたのではないか。
そして、「親魏倭王」の授爵によって神聖王・卑弥呼は男性執政王を上回る権威を獲得し、北部九州の地位は向上したのである。
卑弥呼の死後、すぐに男王が立てられたが、これは男性執政王がいたからだろう。しかし、倭王権では北部九州勢力が優勢だったため、卑弥呼の「宗女」である台与が立てられたと考えられる。
『梁書』倭伝や『北史』東夷伝にある「並んで中国から授爵される」(「竝受中国爵命」)は、カリスマ的な卑弥呼から経験が乏しい台与が神聖王となったことで、北部九州と吉備・畿内勢力の地位が拮抗した現れとも読み取れる。
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