前方後円墳が示す「卑弥呼と並び立つ男王」の存在 背景には吉備と北九州の「主導権争い」があった

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オオヤマト古墳群の系列分析からは、祭祀と執政を分掌した2人の大王の姿が見えてくる。3世紀後半の崇神天皇をヤマト王権の初代大王とする見方が多いが、卑弥呼は2人いたヤマト王権の初代大王の1人だった可能性がある。

吉備の主導で進められた「プレ倭王権」

卑弥呼が実権のない共立王から、王の中の王=大王となったのは、「親魏倭王」という中国王朝の権威を持ってからだと考えられる。

そのため、本稿では、ヤマト王権の成立を卑弥呼が「親魏倭王」となった239年として論を進める。ただし、3世紀後半の成立とする定説におけるヤマト王権との混同を避けるため、中国王朝から倭国王と認定された政権という意味で、以降は卑弥呼・台与政権を「倭王権」、卑弥呼の共立王時代を「プレ倭王権」と記述する。

『魏志』倭人伝では、「親魏倭王」の授爵は卑弥呼のみであり執政王は登場しない。しかし、これはあくまでも中国王朝側からの見方だからだろう。

『魏志』倭人伝には「卑弥呼を見たものは少なく、婢(下女)千人が身辺を警護し、ただ1人の男子が飲食を給し、女王の言葉を伝えるのに居所に出入りした」とある。

この男子は国の統治を補佐した男弟だろう。実質的に卑弥呼1人では国の統治は行えない体制だったことがうかがえる。

ではなぜ、1人の王による統治ではなく、二重統治体制をとったのか。ここにはプレ倭王権成立が背景にある。

「第一次倭国乱」で吉備を中心とする瀬戸内海中部勢力と畿内が結びついたのちに、「第二次倭国乱」を経て北部九州が加わり、卑弥呼が共立された。

卑弥呼の出自はわかっていないが、画文帯神獣鏡を用いた統治は、鏡を副葬品として用いていた北部九州の祭祀文化に通じる。また平原1号墓に埋葬された伊都国王は、副葬品から女性と考えられており、伊都国が伝統的に女王を持つクニでもあった。また北部九州は大陸との交流が活発であり、儀礼に通じている。

ここから卑弥呼は、北部九州勢力を後ろ盾とする人物だったのではないかと考えられる。

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